柳原良平主義 ~RyoheIZM~13
柳原良平主義 ~RyoheIZM~13
Sep 28, 2023
色彩感覚
色彩感覚
たとえば、マリメッコ
たとえば、マリメッコ
たとえばフィンランドの老舗ブランド、マリメッコの定番テキスタイルは、誰が見てもすぐにマリメッコとわかる。それはもちろんポピーの花をモチーフにした、例のウニッコ(Unikko)と呼ばれるデザイン・パターンのせいでもあるが、目が覚めるような鮮やかな色彩感覚にも原因があるのではないかと思う。
色彩感覚。それは色相、明度、彩度が異なった、色の組み合わせにより発生するコントラストのマジックだ。柳原良平のカラー作品には、マリメッコの色彩感覚に通底するセンスがあるのでは?などと、ふと思ったが、まったくの素人の感覚なので、よくわからない。
たとえばフィンランドの老舗ブランド、マリメッコの定番テキスタイルは、誰が見てもすぐにマリメッコとわかる。それはもちろんポピーの花をモチーフにした、例のウニッコ(Unikko)と呼ばれるデザイン・パターンのせいでもあるが、目が覚めるような鮮やかな色彩感覚にも原因があるのではないかと思う。
色彩感覚。それは色相、明度、彩度が異なった、色の組み合わせにより発生するコントラストのマジックだ。柳原良平のカラー作品には、マリメッコの色彩感覚に通底するセンスがあるのでは?などと、ふと思ったが、まったくの素人の感覚なので、よくわからない。
色の幅
だが柳原良平のカラー作品を見るたび、その色彩とコントラストに引き込まれるのは、具体的にいうなら、空の青やファンネル(煙突)の赤、木々の緑などそれぞれの色が実にいい色だからだ。
同じ緑でも、淡い黄緑色からコバルトグリーンやアーミーグリーンなどなどピンからキリまである。どの緑を選ぶか、どの赤を選ぶか、どの青を選ぶかというのはセンスだ。つまり色の中の色の選び方について考えさせられる。
上野リチとは?
柳原の色彩感覚、そのベースは、京都市立美術大学で培われた。美大では色彩について学ぶ科目があり、色彩構成という科目で柳原を教えたのは、上野リチ(フェリーツェ・リックス=ウエノ、1893〜1967)というウイーン工房出身のオーストリア人女性だった。
ウイーン工房とは20世紀初頭にウイーンで設立された、食器や家具などインテリアから住宅に至るまで、生活に根付いたさまざまなものをデザインする工房で、直線的・幾何的な装飾に特徴を持ち、人気を博した。その後、装飾を極限まで廃するバウハウスのデザインが主流に移ったものの、昨今また再評価され始めている。
上野リチは、そんなウイーン工房の創設者に見込まれ、テキスタイル・デザインを中心に多くの作品を手がけ、のちに建築家・上野伊三郎と結婚して京都に定住した人物。
彼女の作品は、京都国立近代美術館に多く所蔵されているが、七宝や織物など京都の伝統工芸における和柄のセンスを取り入れながら、テキスタイルを中心に身近な小物類やインテリアなど、幅広い分野で活躍した。いずれも豊かな色彩感を感じさせ、引き込まれるような可愛らしさを持った作品も多い。
切り絵の起源は、ちぎり絵だった?
美大で教鞭をとった彼女は、色彩構成の授業の中で、絵の具を塗った紙をちぎって台紙に貼り付けて作品にするという授業を行った。元・横浜みなと博物館館長・志澤氏はこれについて言及する。
「先生の切り絵は、上野リチさんから教わったことが大きな影響を与えていると思います。色彩構成の点でね。リチさんはウイーン工房の出身だから、柳原先生の切り絵にはウイーン工房の思想がちょっと流れているのかなって感じます」
ちぎって貼るか、切って貼るかの違いはあれど、色の紙を貼り付けて作品を構成するいう意味では、確かに影響は大きかったのだろう。柳原自身も著書の中で、彼女の教えに影響を受けたかもしれないと述べている。
オリジナリティこそ!
上野リチの教えは、色彩についてだけではなかった。むしろ、そうした技術的な側面よりも、オリジナリティを作品に込めることを何より重視したという。整然と貼られた作品よりも、大胆で個性のある作品を評価したそうだ。
確かに切り絵は、ちぎり絵に影響を受けたかもしれない。だが個性を尊ぶ精神こそ、柳原が上野リチから受けた最も大きな学びだったのではなかろうか。現に柳原の切り絵は、唯一無二と言えるほど個性に溢れている。
そこはかとなく漂う上品さ
さらに柳原の作品には、何とも言えない洗練された色合いを感じさせるものが多い。この辺りは、帝京大学名誉教授・岡部氏が歴史を交えて語ってくれた。
「20世紀にはウィーン工房を起源のひとつとするモダン・アートの流れがあります。ひと言でいえば写実を離れ、自由で幾何学的な線と色彩による造形です。柳原さんの作品は、上野リチさんを通じてモダン・アートの本質につながっていて、新しい造形主義と美意識からでき上がっているんですね。柳原さんの淡い色合いとか、メルヘンっぽいところがあるのも、リチ先生っぽいですね」
上野リチから学んだ色彩構成をベースに、アート・シーンのトップに躍り出たグラフィック・デザインの影響を受けてできあがったのが柳原作品だとすると、なんとなく漂ってくる可愛さも、上品でモダンな雰囲気も腑に落ちる。(以下、次号)
色の幅
だが柳原良平のカラー作品を見るたび、その色彩とコントラストに引き込まれるのは、具体的にいうなら、空の青やファンネル(煙突)の赤、木々の緑などそれぞれの色が実にいい色だからだ。
同じ緑でも、淡い黄緑色からコバルトグリーンやアーミーグリーンなどなどピンからキリまである。どの緑を選ぶか、どの赤を選ぶか、どの青を選ぶかというのはセンスだ。つまり色の中の色の選び方について考えさせられる。
上野リチとは?
柳原の色彩感覚、そのベースは、京都市立美術大学で培われた。美大では色彩について学ぶ科目があり、色彩構成という科目で柳原を教えたのは、上野リチ(フェリーツェ・リックス=ウエノ、1893〜1967)というウイーン工房出身のオーストリア人女性だった。
ウイーン工房とは20世紀初頭にウイーンで設立された、食器や家具などインテリアから住宅に至るまで、生活に根付いたさまざまなものをデザインする工房で、直線的・幾何的な装飾に特徴を持ち、人気を博した。その後、装飾を極限まで廃するバウハウスのデザインが主流に移ったものの、昨今また再評価され始めている。
上野リチは、そんなウイーン工房の創設者に見込まれ、テキスタイル・デザインを中心に多くの作品を手がけ、のちに建築家・上野伊三郎と結婚して京都に定住した人物。
彼女の作品は、京都国立近代美術館に多く所蔵されているが、七宝や織物など京都の伝統工芸における和柄のセンスを取り入れながら、テキスタイルを中心に身近な小物類やインテリアなど、幅広い分野で活躍した。いずれも豊かな色彩感を感じさせ、引き込まれるような可愛らしさを持った作品も多い。
切り絵の起源は、ちぎり絵だった?
美大で教鞭をとった彼女は、色彩構成の授業の中で、絵の具を塗った紙をちぎって台紙に貼り付けて作品にするという授業を行った。元・横浜みなと博物館館長・志澤氏はこれについて言及する。
「先生の切り絵は、上野リチさんから教わったことが大きな影響を与えていると思います。色彩構成の点でね。リチさんはウイーン工房の出身だから、柳原先生の切り絵にはウイーン工房の思想がちょっと流れているのかなって感じます」
ちぎって貼るか、切って貼るかの違いはあれど、色の紙を貼り付けて作品を構成するいう意味では、確かに影響は大きかったのだろう。柳原自身も著書の中で、彼女の教えに影響を受けたかもしれないと述べている。
オリジナリティこそ!
上野リチの教えは、色彩についてだけではなかった。むしろ、そうした技術的な側面よりも、オリジナリティを作品に込めることを何より重視したという。整然と貼られた作品よりも、大胆で個性のある作品を評価したそうだ。
確かに切り絵は、ちぎり絵に影響を受けたかもしれない。だが個性を尊ぶ精神こそ、柳原が上野リチから受けた最も大きな学びだったのではなかろうか。現に柳原の切り絵は、唯一無二と言えるほど個性に溢れている。
そこはかとなく漂う上品さ
さらに柳原の作品には、何とも言えない洗練された色合いを感じさせるものが多い。この辺りは、帝京大学名誉教授・岡部氏が歴史を交えて語ってくれた。
「20世紀にはウィーン工房を起源のひとつとするモダン・アートの流れがあります。ひと言でいえば写実を離れ、自由で幾何学的な線と色彩による造形です。柳原さんの作品は、上野リチさんを通じてモダン・アートの本質につながっていて、新しい造形主義と美意識からでき上がっているんですね。柳原さんの淡い色合いとか、メルヘンっぽいところがあるのも、リチ先生っぽいですね」
上野リチから学んだ色彩構成をベースに、アート・シーンのトップに躍り出たグラフィック・デザインの影響を受けてできあがったのが柳原作品だとすると、なんとなく漂ってくる可愛さも、上品でモダンな雰囲気も腑に落ちる。(以下、次号)
アンクル編集子
※編注
「船キチ」という表現は「尋常ではない船マニア」といったニュアンスを表しています。柳原良平が自著の中で、主に自身に対して頻繁に使用している表現ですが、そこに差別や侮蔑の意図はまったく感じられません。従って本コラムでは、他の言葉に置き換えず、あえて「船キチ」という単語をそのまま使用しています。
柳原良平(やなぎはら・りょうへい)
アンクル編集子
※編注
「船キチ」という表現は「尋常ではない船マニア」といったニュアンスを表しています。柳原良平が自著の中で、主に自身に対して頻繁に使用している表現ですが、そこに差別や侮蔑の意図はまったく感じられません。従って本コラムでは、他の言葉に置き換えず、あえて「船キチ」という単語をそのまま使用しています。
ご協力いただいた方々
●岡部昌幸(おかべ・まさゆき) 1957年、横浜生まれ。少年期より地元横浜の美術と港・船の文化、歴史に関心を持つ。1984年、横浜市美術館の準備室に学芸員として勤務し、地域文化のサロンを通じて柳原良平と交遊。1992年、帝京大学文学部史学科専任講師(美術史)に就任。現・帝京大学文学部名誉教授、群馬県立近代美術館特別館長。
● 志澤政勝(しざわ・まさかつ) 1978年、 横浜海洋科学博物館の学芸員となり、同館の理事を務
めていた柳原良平と出会う。交友は柳原が亡くなるまで続いた。以後、横浜マリタイムミュージアム(現・横浜みなと博物館) でキャリアを積み、2015年、館長に就任。2019年に退職し、現在は 海事史などを研究している。
ご協力いただいた方々
●岡部昌幸(おかべ・まさゆき) 1957年、横浜生まれ。少年期より地元横浜の美術と港・船の文化、歴史に関心を持つ。1984年、横浜市美術館の準備室に学芸員として勤務し、地域文化のサロンを通じて柳原良平と交遊。1992年、帝京大学文学部史学科専任講師(美術史)に就任。現・帝京大学文学部名誉教授、群馬県立近代美術館特別館長。
● 志澤政勝(しざわ・まさかつ) 1978年、 横浜海洋科学博物館の学芸員となり、同館の理事を務
めていた柳原良平と出会う。交友は柳原が亡くなるまで続いた。以後、横浜マリタイムミュージアム(現・横浜みなと博物館)でキャリアを積み、2015年、館長に就任。2019年に退職し、現在は 海事史などを研究している。
柳原良平原画・複製画
柳原良平原画・複製画
柳原良平アクリルフォト
柳原良平アクリルフォト
柳原良平主義 ~RyoheIZM~
アンクルトリス(アンクル船長)は2.5頭身。そして、ちびまる子ちゃんも2.5頭身だ。これに気づいたときは驚いた。気付いた自分を褒めてやりたい!
ちびまる子ちゃんの著者、さくらももこは、ちびまる子ちゃんのキャラクターを完成させるにあたって柳原良平、またはアンクルトリスを意識などしていなかっただろう。両者ともすでに故人となっているので知ることはできないが。
山口瞳といえば、寿屋(現サントリーホールディングス)時代の柳原良平の同僚であり、「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」の名コピーを考えた人物として、本稿の読者ならすでにご存知のことと思う。
レイを首にかけたアンクルトリスとハワイ各島のイラストによる地図、そこにこのコピーが配された新聞の広告やテレビCMは大きな反響を呼び、この年(1961年)の流行語となるほど広まった。
アーティストはみな独自の個性を持っているが、その個性を確立するには、それぞれきっかけがあるようだ。たとえばゴッホの独特のタッチや印象的な黄色の使い方は、彼がパリからアルルに引っ越して「ひまわり」を描いたことがきっかけだと言われており、有名な作品はその時期以降に描かれたものが多い。
アルル以前のパリでは、モネやルノワールなどの印象派の画家たちをはじめ、スーラの点描や日本の浮世絵などに影響を受け、さまざまな技法を用いた作品を残したが、ひまわり以降の作品ほど評価は高くない。
柳原良平主義 ~RyoheIZM~
アンクルトリス(アンクル船長)は2.5頭身。そして、ちびまる子ちゃんも2.5頭身だ。これに気づいたときは驚いた。気付いた自分を褒めてやりたい!
ちびまる子ちゃんの著者、さくらももこは、ちびまる子ちゃんのキャラクターを完成させるにあたって柳原良平、またはアンクルトリスを意識などしていなかっただろう。両者ともすでに故人となっているので知ることはできないが。
山口瞳といえば、寿屋(現サントリーホールディングス)時代の柳原良平の同僚であり、「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」の名コピーを考えた人物として、本稿の読者ならすでにご存知のことと思う。
レイを首にかけたアンクルトリスとハワイ各島のイラストによる地図、そこにこのコピーが配された新聞の広告やテレビCMは大きな反響を呼び、この年(1961年)の流行語となるほど広まった。
アーティストはみな独自の個性を持っているが、その個性を確立するには、それぞれきっかけがあるようだ。たとえばゴッホの独特のタッチや印象的な黄色の使い方は、彼がパリからアルルに引っ越して「ひまわり」を描いたことがきっかけだと言われており、有名な作品はその時期以降に描かれたものが多い。
アルル以前のパリでは、モネやルノワールなどの印象派の画家たちをはじめ、スーラの点描や日本の浮世絵などに影響を受け、さまざまな技法を用いた作品を残したが、ひまわり以降の作品ほど評価は高くない。