
柳原良平主義 ~RyoheIZM~05

柳原良平主義 ~RyoheIZM~05
Aug 03, 2023

「船キチ」を自称する、柳原の教養
「船キチ」を自称する、柳原の教養
船を知り尽くす、とは?
船を知り尽くす、とは?
さて、ついに船の話だ。どこから書こうか迷うほど柳原の船愛っぷり(=知識)はどこまでも広く深い。それは『船旅絵日記』(徳間文庫)などを一読すれば、その濃度に誰もが思い知る。
排水量(総トン数)や速度、乗客数、船籍、建造会社、オーナー会社(の遷移も)などのスペックはもちろん、各キャビンの位置がわかる図に加えて一等から三等までの船室料金に至るまで詳細に記述されている。もちろん調べたりメモしたりすればわかることだという意見もあろう。だが当時は、気楽に検索して調べることなど不可能な時代。調査方法も問い合わせ先も、自力で見つけ出すしかない。
しかし、それでもなお、何月何日の深夜に甲板に出て、いま●●沖●キロを航行しているとかの地理・航路(コース)ついてや、航行中にすれ違ったり追い越していく船の名前、港に着けば着いたで、停泊している大小の船の名前にいたるまで、すべてと言っていいくらいの勢いで網羅されている。観察力はもちろん、すでに頭に入っていたとしか思えない。
さて、ついに船の話だ。どこから書こうか迷うほど柳原の船愛っぷり(=知識)はどこまでも広く深い。それは『船旅絵日記』(徳間文庫)などを一読すれば、その濃度に誰もが思い知る。
排水量(総トン数)や速度、乗客数、船籍、建造会社、オーナー会社(の遷移も)などのスペックはもちろん、各キャビンの位置がわかる図に加えて一等から三等までの船室料金に至るまで詳細に記述されている。もちろん調べたりメモしたりすればわかることだという意見もあろう。だが当時は、気楽に検索して調べることなど不可能な時代。調査方法も問い合わせ先も、自力で見つけ出すしかない。
しかし、それでもなお、何月何日の深夜に甲板に出て、いま●●沖●キロを航行しているとかの地理・航路(コース)ついてや、航行中にすれ違ったり追い越していく船の名前、港に着けば着いたで、停泊している大小の船の名前にいたるまで、すべてと言っていいくらいの勢いで網羅されている。観察力はもちろん、すでに頭に入っていたとしか思えない。
こんな日本人が、いたのか!
さらには乗った船の船長やシェフ、クルーの国籍(それぞれが違っている場合も)、乗客の国別の比率、メニューの数々と味わい(もちろん、マズいものはマズいとキッパリ言い切る)が記載され、それらの人々との交流(めちゃめちゃスマート)の様子なども事細かに記述されている。しかもときには似顔絵付きという親切設計。そしてなんと言っても「イタリア人なのに無口」とか「ドイツ人だから〜」とか、丸出しの偏見が気持ちいいったらない。
「偏見」と書いたが、これは柳原の名誉のために言っておかねばならない。船旅での彼の行動からは、国籍・人種を問わず、一切の偏見は感じられない。「イタリア人なのに〜」という記述は、ステレオタイプな先入観が常識化していることを前提に書いた、彼一流のユーモアだ。
日本人がまだ「グローバル」などという、耳触りが良く実は曖昧な言葉を使わなかった時代に、これぞ真のグローバルと言えるような時間と空間にどっぷり身を委ねていた日本人がいたという事実も驚きだった。まさにセレブそのもの(「セレブ」という言葉もなかった時代)。これは憧れる。
前回登場した岡部氏も、柳原と知り合ったときの印象を、このように語っている。
「憧れてはいましたけど、もう及び難い異次元の人って感じだった。あんな世界には到底入っていけないというか。勉強した今ならやっと少し入っていけるかなって感じです。雲の上の人という。それでも紹介されたときは、にこやかで気さくに接してくれました」
柳原の秘密兵器
こんな日本人が、いたのか!
柳原が船に持ち込んだ最強の秘密兵器。それはスケッチブックだ。豪華客船のプールサイドに並んだデッキチェアにもたれて、そして心地良い風が吹き抜ける甲板で、さらにはディナー後のバーカウンターでウィスキーグラスを傾けながら、至る場所でスケッチを披露していた柳原。いや披露しているつもりなどはなく、ただ描いていただけだ。しかしそんな男の姿(と、あのクオリティの絵)を見たら、どこの国の人間であっても興味を持つ。
おそらく柳原は、出港数日後には船内の名物男になっていただろう。そして船客が船旅を終え、それぞれの国に帰国し思い出を振り返るとき、スケッチ中の柳原の姿が、シーンのひとつとして浮かんだのではないか。あのメガネの東洋人は只者ではなかった、と。
それにしても不思議なのは、帰国子女でもない柳原がなぜ外国人とのコミュニケートに不自由しなかったのかということ。著書の中に、自身の英語力の拙さについて吐露する(謙遜する)くだりは、あることはある。しかし語学力は、あまり影響なかったのではないだろうか。彼には意思を通じさせてしまう、何らかのコミュニケート能力があったのだろう。ご子息の柳原良太氏は語る。
「それはあったと思いますよ。英語の話などは父から聞いたことなかったですけど、絵が描けますから。ささっと何でも描いちゃえるので。描き始めるとみんなが集まってきたりとか、話題になったりとか、そんなことがあったんじゃないかな」
さらには乗った船の船長やシェフ、クルーの国籍(それぞれが違っている場合も)、乗客の国別の比率、メニューの数々と味わい(もちろん、マズいものはマズいとキッパリ言い切る)が記載され、それらの人々との交流(めちゃめちゃスマート)の様子なども事細かに記述されている。しかもときには似顔絵付きという親切設計。そしてなんと言っても「イタリア人なのに無口」とか「ドイツ人だから〜」とか、丸出しの偏見が気持ちいいったらない。
「偏見」と書いたが、これは柳原の名誉のために言っておかねばならない。船旅での彼の行動からは、国籍・人種を問わず、一切の偏見は感じられない。「イタリア人なのに〜」という記述は、ステレオタイプな先入観が常識化していることを前提に書いた、彼一流のユーモアだ。
日本人がまだ「グローバル」などという、耳触りが良く実は曖昧な言葉を使わなかった時代に、これぞ真のグローバルと言えるような時間と空間にどっぷり身を委ねていた日本人がいたという事実も驚きだった。まさにセレブそのもの(「セレブ」という言葉もなかった時代)。これは憧れる。
前回登場した岡部氏も、柳原と知り合ったときの印象を、このように語っている。
「憧れてはいましたけど、もう及び難い異次元の人って感じだった。あんな世界には到底入っていけないというか。勉強した今ならやっと少し入っていけるかなって感じです。雲の上の人という。それでも紹介されたときは、にこやかで気さくに接してくれました」
柳原の秘密兵器
船旅における、近代五種とは?
柳原が船に持ち込んだ最強の秘密兵器。それはスケッチブックだ。豪華客船のプールサイドに並んだデッキチェアにもたれて、そして心地良い風が吹き抜ける甲板で、さらにはディナー後のバーカウンターでウィスキーグラスを傾けながら、至る場所でスケッチを披露していた柳原。いや披露しているつもりなどはなく、ただ描いていただけだ。しかしそんな男の姿(と、あのクオリティの絵)を見たら、どこの国の人間であっても興味を持つ。
おそらく柳原は、出港数日後には船内の名物男になっていただろう。そして船客が船旅を終え、それぞれの国に帰国し思い出を振り返るとき、スケッチ中の柳原の姿が、シーンのひとつとして浮かんだのではないか。あのメガネの東洋人は只者ではなかった、と。
それにしても不思議なのは、帰国子女でもない柳原がなぜ外国人とのコミュニケートに不自由しなかったのかということ。著書の中に、自身の英語力の拙さについて吐露する(謙遜する)くだりは、あることはある。しかし語学力は、あまり影響なかったのではないだろうか。彼には意思を通じさせてしまう、何らかのコミュニケート能力があったのだろう。
ご子息の柳原良太氏は語る。「それはあったと思いますよ。英語の話などは父から聞いたことなかったですけど、絵が描けますから。ささっと何でも描いちゃえるので。描き始めるとみんなが集まってきたりとか、話題になったりとか、そんなことがあったんじゃないかな」
船旅における、近代五種とは?
そのように船で暮らす柳原は、最初は人の名前だと思っていた「ピットーレ」が、イタリア語で「画家」という意味だと知ったり、金髪女性とのダンスに尻込みしたり、カジノで勝ったり負けたり、負けたり、負けたり(笑)していく。その経験がまた教養へと昇華され、蓄積されていく。
『船旅絵日記』によれば、船旅の近代五種とは、ダンス、ピンポン、カード(トランプ)、賭け事、酒だそうだ。これらが楽しめるようになると、船旅の魅力は一層の深みを増すという。なぜか。
船上の近代五種は、酒を除いてすべて相手が必要になるからだ。長い船旅だと卓球のトーナメントには、シングルスはもちろん、ダブルスまであるらしい。もちろんダブルスの相棒が、どこの誰になるかわからない。ダンスにしても、どこのマダムとペアを組むかわからない。ひとりでも成立する酒にしても相手がいた方が盛り上がる。
柳原の場合、酒は大の得意だが、ダンスは苦手だったようで、船上で出会った日本人の若者と「つぎまでにダンスもおぼえなけりゃァ」(『船旅絵日記』より)としみじみ語り合うくだりなど、堂々たるセレブっぷりを見せていた柳原も、普通の民間人(?)の感覚を持っていたことがわかって安心させてくれる。
しかし、これを読んで痛感したのは、この「船の近代五種」競技においてメダルを獲るのは、現在の日本人でも相当に難しいのではないかということ。「この船旅の間だけは、コンプレックスを捨てましょう!」と檄を飛ばす大谷翔平そっくりの声が、心の中で虚しく響く。
船の話をし始めたら、船旅の話になってしまった。まあ「船キチ」の柳原は、結局「船旅キチ」でもあったということで。(以下次号)
そのように船で暮らす柳原は、最初は人の名前だと思っていた「ピットーレ」が、イタリア語で「画家」という意味だと知ったり、金髪女性とのダンスに尻込みしたり、カジノで勝ったり負けたり、負けたり、負けたり(笑)していく。その経験がまた教養へと昇華され、蓄積されていく。
『船旅絵日記』によれば、船旅の近代五種とは、ダンス、ピンポン、カード(トランプ)、賭け事、酒だそうだ。これらが楽しめるようになると、船旅の魅力は一層の深みを増すという。なぜか。
船上の近代五種は、酒を除いてすべて相手が必要になるからだ。長い船旅だと卓球のトーナメントには、シングルスはもちろん、ダブルスまであるらしい。もちろんダブルスの相棒が、どこの誰になるかわからない。ダンスにしても、どこのマダムとペアを組むかわからない。ひとりでも成立する酒にしても相手がいた方が盛り上がる。
柳原の場合、酒は大の得意だが、ダンスは苦手だったようで、船上で出会った日本人の若者と「つぎまでにダンスもおぼえなけりゃァ」(『船旅絵日記』より)としみじみ語り合うくだりなど、堂々たるセレブっぷりを見せていた柳原も、普通の民間人(?)の感覚を持っていたことがわかって安心させてくれる。
しかし、これを読んで痛感したのは、この「船の近代五種」競技においてメダルを獲るのは、現在の日本人でも相当に難しいのではないかということ。「この船旅の間だけは、コンプレックスを捨てましょう!」と檄を飛ばす大谷翔平そっくりの声が、心の中で虚しく響く。
船の話をし始めたら、船旅の話になってしまった。まあ「船キチ」の柳原は、結局「船旅キチ」でもあったということで。(以下次号)

アンクル編集子
※編注
「船キチ」という表現は「尋常ではない船マニア」といったニュアンスを表しています。柳原良平が自著の中で、主に自身に対して頻繁に使用している表現ですが、そこに差別や侮蔑の意図はまったく感じられません。従って本コラムでは、他の言葉に置き換えず、あえて「船キチ」という単語をそのまま使用しています。

柳原良平(やなぎはら・りょうへい)

アンクル編集子
※編注
「船キチ」という表現は「尋常ではない船マニア」といったニュアンスを表しています。柳原良平が自著の中で、主に自身に対して頻繁に使用している表現ですが、そこに差別や侮蔑の意図はまったく感じられません。従って本コラムでは、他の言葉に置き換えず、あえて「船キチ」という単語をそのまま使用しています。
参考文献
・『船旅絵日記』(徳間文庫)
ご協力いただいた方々
● 柳原良太(やなぎはら・りょうた) 1961年4月、父・良平、母・薫の長男として、東京で生まれ る。3歳のときに横浜に引越し、子供時代を横浜で過ごす。1985年、日本銀行に就職。2021年に日本銀行を退職し、現在は物流会社に勤務している。東京都在住.
●岡部昌幸(おかべ・まさゆき) 1957年、横浜生まれ。少年期より地元横浜の美術と港・船の文化、歴史に関心を持つ。1984年、横浜市美術館の準備室に学芸員として勤務し、地域文化のサロンを通じて柳原良平と交遊。1992年、帝京大学文学部史学科専任講師(美術史)に就任。現・帝京大学文学部名誉教授、群馬県立近代美術館特別館長。 )
ご協力いただいた方
● 柳原良太(やなぎはら・りょうた) 1961年4月、父・良平、母・薫の長男として、東京で生まれ る。3歳のときに横浜に引越し、子供時代を横浜で過ごす。1985年、日本銀行に就職。2021年に日本銀行を退職し、現在は物流会社に勤務している。東京都在住。
●岡部昌幸(おかべ・まさゆき) 1957年、横浜生まれ。少年期より地元横浜の美術と港・船の文化、歴史に関心を持つ。1984年、横浜市美術館の準備室に学芸員として勤務し、地域文化のサロンを通じて柳原良平と交遊。1992年、帝京大学文学部史学科専任講師(美術史)に就任。現・帝京大学文学部名誉教授、群馬県立近代美術館特別館長。
参考文献
・『船旅絵日記』(徳間文庫)
柳原良平原画・複製画
柳原良平原画・複製画
柳原良平アクリルフォト
柳原良平アクリルフォト
柳原良平主義 ~RyoheIZM~
アンクルトリス(アンクル船長)は2.5頭身。そして、ちびまる子ちゃんも2.5頭身だ。これに気づいたときは驚いた。気付いた自分を褒めてやりたい!
ちびまる子ちゃんの著者、さくらももこは、ちびまる子ちゃんのキャラクターを完成させるにあたって柳原良平、またはアンクルトリスを意識などしていなかっただろう。両者ともすでに故人となっているので知ることはできないが。
山口瞳といえば、寿屋(現サントリーホールディングス)時代の柳原良平の同僚であり、「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」の名コピーを考えた人物として、本稿の読者ならすでにご存知のことと思う。
レイを首にかけたアンクルトリスとハワイ各島のイラストによる地図、そこにこのコピーが配された新聞の広告やテレビCMは大きな反響を呼び、この年(1961年)の流行語となるほど広まった。
アーティストはみな独自の個性を持っているが、その個性を確立するには、それぞれきっかけがあるようだ。たとえばゴッホの独特のタッチや印象的な黄色の使い方は、彼がパリからアルルに引っ越して「ひまわり」を描いたことがきっかけだと言われており、有名な作品はその時期以降に描かれたものが多い。
アルル以前のパリでは、モネやルノワールなどの印象派の画家たちをはじめ、スーラの点描や日本の浮世絵などに影響を受け、さまざまな技法を用いた作品を残したが、ひまわり以降の作品ほど評価は高くない。
柳原良平主義 ~RyoheIZM~
アンクルトリス(アンクル船長)は2.5頭身。そして、ちびまる子ちゃんも2.5頭身だ。これに気づいたときは驚いた。気付いた自分を褒めてやりたい!
ちびまる子ちゃんの著者、さくらももこは、ちびまる子ちゃんのキャラクターを完成させるにあたって柳原良平、またはアンクルトリスを意識などしていなかっただろう。両者ともすでに故人となっているので知ることはできないが。
山口瞳といえば、寿屋(現サントリーホールディングス)時代の柳原良平の同僚であり、「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」の名コピーを考えた人物として、本稿の読者ならすでにご存知のことと思う。
レイを首にかけたアンクルトリスとハワイ各島のイラストによる地図、そこにこのコピーが配された新聞の広告やテレビCMは大きな反響を呼び、この年(1961年)の流行語となるほど広まった。
アーティストはみな独自の個性を持っているが、その個性を確立するには、それぞれきっかけがあるようだ。たとえばゴッホの独特のタッチや印象的な黄色の使い方は、彼がパリからアルルに引っ越して「ひまわり」を描いたことがきっかけだと言われており、有名な作品はその時期以降に描かれたものが多い。
アルル以前のパリでは、モネやルノワールなどの印象派の画家たちをはじめ、スーラの点描や日本の浮世絵などに影響を受け、さまざまな技法を用いた作品を残したが、ひまわり以降の作品ほど評価は高くない。