柳原良平主義 ~RyoheIZM~14
柳原良平主義 ~RyoheIZM~14
Oct 12, 2023
多能の作家と、作品数の関係
多能の作家と、作品数の関係
多岐にわたる手法で
多岐にわたる手法で
柳原良平の多能ぶりについては過去にも述べたが、今回はその多能ついて、もう少し詳しく触れておきたい。
画家でもありデザイナーでもあったことは書いたが、たとえば画家としても柳原は、驚くほどさまざまな手法を駆使した作品を残している。それは切り絵、油絵、水彩画、ペン画、マンガ、リトグラフなどだが、本来はそれぞれに専門家が存在するほど異なる分野のもの。そのうえ作品として販売していたわけではないが、(船の)立体模型も数多く製作している。
デザイナーとしては、ポスターなどは多く手がけているが、本の装丁も多い。装丁とは、表紙やカバー、また外箱などのデザインを指す。よくハードカバーの豪華本などで、表紙に布が貼られていたり金色の刻印などが施されたりなど、凝った作りになっているものがあるが、そうした本の”側”をデザインすることを装丁と呼んでいる。この装丁だけでも柳原は、200冊近い数をこなしている。
柳原良平の多能ぶりについては過去にも述べたが、今回はその多能ついて、もう少し詳しく触れておきたい。
画家でもありデザイナーでもあったことは書いたが、たとえば画家としても柳原は、驚くほどさまざまな手法を駆使した作品を残している。それは切り絵、油絵、水彩画、ペン画、マンガ、リトグラフなどだが、本来はそれぞれに専門家が存在するほど異なる分野のもの。そのうえ作品として販売していたわけではないが、(船の)立体模型も数多く製作している。
デザイナーとしては、ポスターなどは多く手がけているが、本の装丁も多い。装丁とは、表紙やカバー、また外箱などのデザインを指す。よくハードカバーの豪華本などで、表紙に布が貼られていたり金色の刻印などが施されたりなど、凝った作りになっているものがあるが、そうした本の”側”をデザインすることを装丁と呼んでいる。この装丁だけでも柳原は、200冊近い数をこなしている。
文筆業も社会運動も
絵やデザインだけでなく文筆業も活発に行っており、著書も多数ある。多くは船に関係するものだが、自伝もあれば絵本もある(ただ絵本には編集者がいて、柳原は挿絵を描くのみになるが)。
絵画や文筆業以外に、市民運動の旗振り役というのもあった。海洋科学博物館(現・横浜みなと博物館)が閉鎖の危機に瀕した際、”横浜市民と港を結びつける会”を組織して、危機から救ったり、また帆船日本丸の横浜への誘致運動にも関わり、成功させている。
こうしてみると柳原良平という人物は一見つかみどころがないが、彼が自称する”船キチ”を軸に考えると、一瞬にして筋の通ったものとして理解できる。
すべてがわかる企画展
柳原のこうした多彩な活動を一堂に集め、企画展『船の画家 柳原良平』を主導したのが元・横浜みなと博物館館長の志澤政勝氏だ。彼は、柳原が存命だった2001年と、没後にもテーマを変えて開催している。志澤氏は語る。
「先生は絵描きなんで絵はもちろんですが、それ以外にコマーシャルの仕事、たとえばサントリーのアンクルトリス関連の作品も集めました。それからデザイン、イラストレーション、装丁などいろんな分野で作品を残していらっしゃるので、それらも。市民運動もやっていらしたんで、そのポスターや会報なども集めました。また先生はいろいろなものを集めていたので、そのコレクション。あとは立体とか著書とかもね。だからいろいろなものを展示しました。もちろん絵をいちばん多く展示しましたけど。要は先生がやってきたことを網羅的に展示するというものです」
各地に点在する作品・資料を一堂に
多くの作品を残している柳原だが、それらを丹念に収集して回った志澤氏には頭が下がる。当時、柳原の作品やコレクションを展示したミュージアム『アンクル船長の館』が広島の沼隈町にあり(現在は閉館)、そこからも多くの資料を借りた。
「資料を選ぶのに一週間くらい行ったんだけど、職場からは出張費が4日分しか出ないんで、あとの3泊は自腹でした(笑)」
企画展を充実させるため志澤氏は、柳原作品を愛して購入したコレクターからも作品を借りた。
「元町のお店の社長さんとか、個人の、まあお金持ちの方とかね(笑)。好きな人は何点も持ってるんです。みなさん喜んで貸してくれる。やっぱり自分のコレクションを人に観てもらいたいと思っていらっしゃるんでしょう」
柳原自身も大感謝
企画展に足を運んだ当時70歳の柳原は、その内容を「圧巻」と自著で記し、また「私のことを私より詳しい」と喜びつつ、志澤氏に感謝した。
「企画展は柳原良平ファンで賑わいました。ご自身の全体像を展示するのは初めてでしたから先生も喜んでくださって。最後の2日間は弁当持って奥様と一緒に来てくださいました。ずっと会場にいて、サインを頼まれればサインしてっていう感じで。非常に喜ばれてた様子でしたので、良かったと思います」
作品や資料を、探し、選び、実現させた志澤氏の尽力は想像以上に大きく、現在、横浜みなと博物館に柳原の常設展が存在しているのも、この企画展があったからだ。盛況に終わり、その後に常設展を設置するかどうか、市民の投票で決まったと聞いた。
しかしそんな充実した企画展でも紹介された作品は、ほんの一部でしかないという。膨大な作品数を残しているのだが、これについては柳原本人が「数えきれない」と自著に記している。寄贈されただけで数千あったと聞くから、おそらく万単位に上るのだろう。(以下、次号)
文筆業も社会運動も
絵やデザインだけでなく文筆業も活発に行っており、著書も多数ある。多くは船に関係するものだが、自伝もあれば絵本もある(ただ絵本には編集者がいて、柳原は挿絵を描くのみになるが)。
絵画や文筆業以外に、市民運動の旗振り役というのもあった。海洋科学博物館(現・横浜みなと博物館)が閉鎖の危機に瀕した際、”横浜市民と港を結びつける会”を組織して、危機から救ったり、また帆船日本丸の横浜への誘致運動にも関わり、成功させている。
こうしてみると柳原良平という人物は一見つかみどころがないが、彼が自称する”船キチ”を軸に考えると、一瞬にして筋の通ったものとして理解できる。
すべてがわかる企画展
柳原のこうした多彩な活動を一堂に集め、企画展『船の画家 柳原良平』を主導したのが元・横浜みなと博物館館長の志澤政勝氏だ。彼は、柳原が存命だった2001年と、没後にもテーマを変えて開催している。志澤氏は語る。
「先生は絵描きなんで絵はもちろんですが、それ以外にコマーシャルの仕事、たとえばサントリーのアンクルトリス関連の作品も集めました。それからデザイン、イラストレーション、装丁などいろんな分野で作品を残していらっしゃるので、それらも。市民運動もやっていらしたんで、そのポスターや会報なども集めました。また先生はいろいろなものを集めていたので、そのコレクション。あとは立体とか著書とかもね。だからいろいろなものを展示しました。もちろん絵をいちばん多く展示しましたけど。要は先生がやってきたことを網羅的に展示するというものです」
各地に点在する作品・資料を一堂に
多くの作品を残している柳原だが、それらを丹念に収集して回った志澤氏には頭が下がる。当時、柳原の作品やコレクションを展示したミュージアム『アンクル船長の館』が広島の沼隈町にあり(現在は閉館)、そこからも多くの資料を借りた。
「資料を選ぶのに一週間くらい行ったんだけど、職場からは出張費が4日分しか出ないんで、あとの3泊は自腹でした(笑)」
企画展を充実させるため志澤氏は、柳原作品を愛して購入したコレクターからも作品を借りた。
「元町のお店の社長さんとか、個人の、まあお金持ちの方とかね(笑)。好きな人は何点も持ってるんです。みなさん喜んで貸してくれる。やっぱり自分のコレクションを人に観てもらいたいと思っていらっしゃるんでしょう」
柳原自身も大感謝
企画展に足を運んだ当時70歳の柳原は、その内容を「圧巻」と自著で記し、また「私のことを私より詳しい」と喜びつつ、志澤氏に感謝した。
「企画展は柳原良平ファンで賑わいました。ご自身の全体像を展示するのは初めてでしたから先生も喜んでくださって。最後の2日間は弁当持って奥様と一緒に来てくださいました。ずっと会場にいて、サインを頼まれればサインしてっていう感じで。非常に喜ばれてた様子でしたので、良かったと思います」
作品や資料を、探し、選び、実現させた志澤氏の尽力は想像以上に大きく、現在、横浜みなと博物館に柳原の常設展が存在しているのも、この企画展があったからだ。盛況に終わり、その後に常設展を設置するかどうか、市民の投票で決まったと聞いた。
しかしそんな充実した企画展でも紹介された作品は、ほんの一部でしかないという。膨大な作品数を残しているのだが、これについては柳原本人が「数えきれない」と自著に記している。寄贈されただけで数千あったと聞くから、おそらく万単位に上るのだろう。(以下、次号)
アンクル編集子
※編注
「船キチ」という表現は「尋常ではない船マニア」といったニュアンスを表しています。柳原良平が自著の中で、主に自身に対して頻繁に使用している表現ですが、そこに差別や侮蔑の意図はまったく感じられません。従って本コラムでは、他の言葉に置き換えず、あえて「船キチ」という単語をそのまま使用しています。
柳原良平(やなぎはら・りょうへい)
アンクル編集子
※編注
「船キチ」という表現は「尋常ではない船マニア」といったニュアンスを表しています。柳原良平が自著の中で、主に自身に対して頻繁に使用している表現ですが、そこに差別や侮蔑の意図はまったく感じられません。従って本コラムでは、他の言葉に置き換えず、あえて「船キチ」という単語をそのまま使用しています。
ご協力いただいた方々
● 志澤政勝(しざわ・まさかつ) 1978年、 横浜海洋科学博物館の学芸員となり、同館の理事を務
めていた柳原良平と出会う。交友は柳原が亡くなるまで続いた。以後、横浜マリタイムミュージアム(現・横浜みなと博物館) でキャリアを積み、2015年、館長に就任。2019年に退職し、現在は 海事史などを研究している。
ご協力いただいた方々
● 志澤政勝(しざわ・まさかつ) 1978年、 横浜海洋科学博物館の学芸員となり、同館の理事を務
めていた柳原良平と出会う。交友は柳原が亡くなるまで続いた。以後、横浜マリタイムミュージアム(現・横浜みなと博物館)でキャリアを積み、2015年、館長に就任。2019年に退職し、現在は 海事史などを研究している。
柳原良平原画・複製画
柳原良平原画・複製画
柳原良平アクリルフォト
柳原良平アクリルフォト
柳原良平主義 ~RyoheIZM~
アンクルトリス(アンクル船長)は2.5頭身。そして、ちびまる子ちゃんも2.5頭身だ。これに気づいたときは驚いた。気付いた自分を褒めてやりたい!
ちびまる子ちゃんの著者、さくらももこは、ちびまる子ちゃんのキャラクターを完成させるにあたって柳原良平、またはアンクルトリスを意識などしていなかっただろう。両者ともすでに故人となっているので知ることはできないが。
山口瞳といえば、寿屋(現サントリーホールディングス)時代の柳原良平の同僚であり、「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」の名コピーを考えた人物として、本稿の読者ならすでにご存知のことと思う。
レイを首にかけたアンクルトリスとハワイ各島のイラストによる地図、そこにこのコピーが配された新聞の広告やテレビCMは大きな反響を呼び、この年(1961年)の流行語となるほど広まった。
アーティストはみな独自の個性を持っているが、その個性を確立するには、それぞれきっかけがあるようだ。たとえばゴッホの独特のタッチや印象的な黄色の使い方は、彼がパリからアルルに引っ越して「ひまわり」を描いたことがきっかけだと言われており、有名な作品はその時期以降に描かれたものが多い。
アルル以前のパリでは、モネやルノワールなどの印象派の画家たちをはじめ、スーラの点描や日本の浮世絵などに影響を受け、さまざまな技法を用いた作品を残したが、ひまわり以降の作品ほど評価は高くない。
柳原良平主義 ~RyoheIZM~
アンクルトリス(アンクル船長)は2.5頭身。そして、ちびまる子ちゃんも2.5頭身だ。これに気づいたときは驚いた。気付いた自分を褒めてやりたい!
ちびまる子ちゃんの著者、さくらももこは、ちびまる子ちゃんのキャラクターを完成させるにあたって柳原良平、またはアンクルトリスを意識などしていなかっただろう。両者ともすでに故人となっているので知ることはできないが。
山口瞳といえば、寿屋(現サントリーホールディングス)時代の柳原良平の同僚であり、「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」の名コピーを考えた人物として、本稿の読者ならすでにご存知のことと思う。
レイを首にかけたアンクルトリスとハワイ各島のイラストによる地図、そこにこのコピーが配された新聞の広告やテレビCMは大きな反響を呼び、この年(1961年)の流行語となるほど広まった。
アーティストはみな独自の個性を持っているが、その個性を確立するには、それぞれきっかけがあるようだ。たとえばゴッホの独特のタッチや印象的な黄色の使い方は、彼がパリからアルルに引っ越して「ひまわり」を描いたことがきっかけだと言われており、有名な作品はその時期以降に描かれたものが多い。
アルル以前のパリでは、モネやルノワールなどの印象派の画家たちをはじめ、スーラの点描や日本の浮世絵などに影響を受け、さまざまな技法を用いた作品を残したが、ひまわり以降の作品ほど評価は高くない。