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アンクル編集子
Aug 24, 2023

柳原良平主義 ~RyoheIZM~08

柳原良平主義 ~RyoheIZM~08

アンクル編集子

Aug 24, 2023

親しみやすさを実現する手法

親しみやすさを実現する手法

船を、人間のように描く

船を、人間のように描く

柳原良平の描く船は、堂々たる威風を感じさせるというより、親しみやすく可愛らしいものが多い。この親しみやすさはどこから来るのか? またその親しみやすさを、どうやって表現していたのか?


元・横浜みなと博物館館長の志澤政勝氏は、それをひと言で表現してくれた。

「変形されてますよね? つまり圧縮です」


柳原は、船に対して尋常ではない親しみを感じていたから、その気持ちを広く伝えるために、さまざまな手法を使ったのだと志澤氏は続ける。


「あるとおりに描くんじゃなくて、感じたとおりに描くんです。先生はいつも『船は鉄の塊だけど、私は生きてる人間のように考えている』っておっしゃっていました。子供の頃から船が好きでしょうがなかったから船の親しみやすさを多くの人に知ってほしいという願いがある。だからそういう描き方になる。どういう描き方になるのかというと、親しみやすさを込めるために、イラストレーションで言うと、例えば船に口をつけたり手足をつけたりした作品もありましたよね?」

柳原良平の描く船は、堂々たる威風を感じさせるというより、親しみやすく可愛らしいものが多い。この親しみやすさはどこから来るのか? またその親しみやすさを、どうやって表現していたのか?

元・横浜みなと博物館館長の志澤政勝氏は、それをひと言で表現してくれた。

「変形されてますよね? つまり圧縮です」

柳原は、船に対して尋常ではない親しみを感じていたから、その気持ちを広く伝えるために、さまざまな手法を使ったのだと志澤氏は続ける。


「あるとおりに描くんじゃなくて、感じたとおりに描くんです。先生はいつも『船は鉄の塊だけど、私は生きてる人間のように考えている』っておっしゃっていました。子供の頃から船が好きでしょうがなかったから船の親しみやすさを多くの人に知ってほしいという願いがある。だからそういう描き方になる。どういう描き方になるのかというと、親しみやすさを込めるために、イラストレーションで言うと、例えば船に口をつけたり手足をつけたりした作品もありましたよね?」

「船キチ」良平がデビュー!

設計図を借りては模型を作ることを、その後も繰り返した柳原。1947年には外国航路の貨物船の建造が許可されたので、貨物船の模型も作った。縮尺200分の1で製作された大型の模型は結局、社長に贈呈され、さらには写真付きで『日本海事新聞』に掲載された。柳原本人は、これが「船キチ良平のデビュー」と『柳原良平のわが人生』に記述している。


柳原の、物体を3D状態で把握する能力、拡大解釈するなら空間認識能力は、この模型作りを通して鍛えられたのではなかろうか。元・横浜みなと博物館館長で、柳原作品をよく知る志澤政勝氏が、こんな話をしてくれた。


「船に詳しくない絵描きが船を描くと、船首とか船尾とか、どこか形が破綻しちゃうことがある。でも先生の場合、どんなにデフォルメしてもそういうことは一切なかった。先生は模型を作るのが好きでしたからね。模型は立体だから、あらゆる角度から見ることになる」


そして設計技師の薫陶もあってか客室や貨物室、船橋やマストの位置・形状などを通して理解した構造的な知識は、おそらくは柳原の機能美を察知するアンテナに磨きをかけたのではないかと推測される。

しかし船舶の設計図を、外部の、しかも少年に貸し出すとは、当時のおおらかな気風が偲ばれる。今ならまず、秘密保持契約書にサインして、となる。いや、それ以前に貸し出さないな。


ただ当時の大阪商船をかばうつもりはないが、少なくとも柳原少年は、会社にとって例外的存在だったに違いない。この少年なら大丈夫(つまり設計図を悪用しない)と思えるだけの船への愛と、しっかりした船の知識はもちろん、大人顔負けのマナーまで備わっていた。

手紙を出したら顔パスに?

圧縮がキーワード

なにしろ大阪商船で顔パスになったエピソードがふるっている。戦後すぐ、建造された船の戦中の行方や戦後に生き残った船を知りたいがために柳原は、主だった船会社に問い合わせの手紙を出したという。

元・商船三井の大貫氏によれば「先生が旧制中学4年生の時ですから昭和22年(1947年)のことです。第二次世界大戦前、一定の規模を有する船会社は10社余りありましたかね」ということらしい。柳原の記述では9社を列記した後「他にも送ったかもしれないが忘れた」とあるから、もしかしたら10社を超える全社に送っていたかもしれない。


しかも柳原は、それら全部の書簡に自分の知る限りの船のリストを付けた。いうまでもなく当時コピー機などはない。一つひとつ手書きで書いた。というより、各社の建造船を熟知していた可能性も高いので、共通のリストでなく、各社宛にすべて違えていのたかもしれない。


驚くのは、すべての手紙に切手を貼った返信用封筒を同封していたこと。そこまで気が回る中学生がいるだろうか。自分の中学時代を振り返ると、ありえない配慮ぶりだ。この記述を読んだとき、このマナー、さらには手紙を書く行動力に、心の中で脱帽した。


こんな配慮までされたら、どんな船会社も黙っていられない。案の定ほとんどの会社から返事が届いた。中でも柳原の心意気に最大限の礼を尽くしたのが大阪商船だった。返送主は「大阪商船」ではなく「大阪商船工務部」となっていた。

船を擬人化した漫画のようなイラストレーションも、確かにあった。ただ擬人化は極端な例であり、擬人化しない、普通の(?)船の絵にも、暖かさや親しみやすさは共通して存在している。その手法について、さらに志澤氏に聞いてみる。


「船の全長を短く描いたりね。つまり圧縮です。アンクルトリスも圧縮ですよね。それ以外に空間も圧縮する」


アンクルトリスは2.5頭身。その”圧縮”が多くの人に親しまれた原因になったというのは納得だ。柳原が船の全長を短く描いていることは確かに見ればわかるが、それも船に親しみを感じさせる大きな原因になると志澤氏は言う。でも真意はそれだけでなく、その延長上にあるという。

伝えるために、必要な、簡潔さ

船のプロを魅了した中学生

「先生は元々、広告デザイナー。つまり広告屋です。広告屋っていうのは、伝えたいメッセージを簡潔に消費者に届けなきゃいけない。しかも届けた上で商品を買ってもらわなきゃならない。そのためにどうするかっていうと、伝える対象は可能な限り簡潔に表現する。だからイラストレーションもそうなるんです」


確かにシンプルと言われればそのとおりだが、船の印象は少しも損なわれていないどころか、豪華客船からは優雅な印象が、貨物船からは実直でパワフルな印象が、それぞれ伝わってくる。


優れた作家の文章を読むと、しばしば書かれている文言以上の情報が一気に押し寄せることがある。俗に言う"行間"というやつだが、柳原の絵にもきっと行間を感じさせる何かがあるのだろう。


だから出港時の客船の絵からは歓声が聞こえ、大型貨物船の絵からはクレーンや鎖の錆びたような匂いが漂ってくる。もちろん錯覚だが、それがきっと優れた小説にある行間にあたるものであり、それが柳原作品が持つ独特の”凝縮感”につながるのだろう。

空間の圧縮とは

では、もうひとつ志澤氏が言った、長さだけでなく”空間も圧縮する”とはどういうことか。それは横浜マリタイムミュージアム(現・横浜みなと美術館)が発行した『企画展 船の画家 柳原良平』に掲載されたイラストレーター西村慶明氏の寄稿文にヒントがある。


西村氏が望遠レンズで撮った船の写真に、柳原が興味を示したのだという。柳原は、デフォルメされて面白い効果が出ていると言ったそうだ。望遠レンズで撮影された写真は、遠近感がなくなり、被写体から遠くにある背景が、ずっと近くに見える。


親しいカメラマンにも確認したが「望遠で何かを撮影すると、被写体の後ろの背景は、肉眼で見るより近く、つまり大きく写ります」とのことだった。志澤氏の言う”空間の圧縮”とはこのことで、つまり遠近感が圧縮されるということだ。

一般からの問い合わせは普通、お客様窓口や総務部などが受け取り、受け取った部署が対応する。しかし工務部が返事を出したということは、手紙がどこかの部署から工務部へ渡ったということを示している。普通の問い合わせだったら、総務部からでも最低限の返事を書くことは可能だったはずだ。


この話は語り草になっていたようで、1970年代に商船三井(当時は大阪商船三井船舶)に入社した元・商船三井の中島淳子氏も、入社30年ほど前の、そのエピソードを伝え聞いていた。

「先生の書いた手紙が普通ではなかったから『この子はちょっと違うぞ』って、当時の会社の人が感じたんでしょう。最初にその手紙を受け取ったのは、たぶん総務みたいな部署だったと思うんです。でも工務部っていう、つまり船の設計をする部署にその手紙が回ったっていうことは、船の構造も含めて好きだっていうことが、誰が見てもわかるような手紙だったんだろうなって思うんですよ」


工務部のメンバーたちは、少年からの船愛に溢れた手紙に喜んだ。返信には、問い合わせの回答のみならず絵はがきを同封し、文末に「良かったら会社に遊びにいらっしゃい」と書き添えた。つまり彼らのほうが、柳原良平なる中学生に会いたくなってしまったのだ。柳原は自著の中で、会社を訪問した際に紹介された造船技師、加名生(かのう)氏を、「船キチ」になった自分の育ての親と書いている。設計図を見せながら、船の構造を教えたのが、この加名生氏だった。


取り付けられたドアの開閉方向について、なぜその方向なのかを解説する加名生氏と、説明を聞きながら真剣に頷く少年の姿が目に浮かぶ。『柳原良平のわが人生』には、ところどころに柳原ならではの筆致による挿絵が挿入されており、そこには加名生氏も登場している。


一通の問い合わせの書簡が、書いた本人も想像しなかった運命の扉を開いた。寿屋(現サントリーホールディングス)に連れて行って欲しいと上司に頼んだときもそうだったが、そのはるか前、まだ中学時代に柳原は、自分の運命を自分で切り開いていた。(以下次号)

感じたとおりに描く

圧縮と簡潔さ、それが柳原作品を楽しむ際の鍵となる。しかしだからといって、船の全長を短く、ディテイルをシンプルに、そして遠近感を無くせば、あのような親しみの湧く絵が描けるかというと、そんな単純な話ではない。どこまで短くするか、どこを省略するかなど、それは柳原にしかないセンスでバランスが取られているからだ。


冒頭に紹介した、志澤氏の言う「あるとおりに描くんじゃなくて、感じたとおりに描く」が表すように、柳原にしかない感受性が、あのように描かせるのだろう。さらにそれを広告デザイナーならではのバランス感で作品として仕上げていく。


普段、何気なく見かける広告のポスターでも、たまに気になってずっと見てしまうものがある(セクシーな女性の写真以外に)。その背景にはきっと一流の広告デザイナーが、考えに考えたカラクリがあって、その手腕に踊らされているに違いない。広告、恐るべし。(以下次号)

アンクル編集子

ロイヤリティバンクの中の人。出版社勤務ののち独立し、雑誌やWEBなどに記事を執筆。柳原良平作品の素晴らしさに魅せられ、本コラムの連載を開始。

※編注
「船キチ」という表現は「尋常ではない船マニア」といったニュアンスを表しています。柳原良平が自著の中で、主に自身に対して頻繁に使用している表現ですが、そこに差別や侮蔑の意図はまったく感じられません。従って本コラムでは、他の言葉に置き換えず、あえて「船キチ」という単語をそのまま使用しています。   

柳原良平(やなぎはら・りょうへい)

1931年、東京生まれ。1954年、寿屋(現・サントリーホールディングス)に入社。話題を呼ぶ広告を次々に制作し電通賞や毎日産業デザイン賞など多くの賞を受賞して退職・独立。船と港をこよなく愛し、横浜に移住。画家以外に、ぐらふぃくデザイナー、装丁家、絵本作家、アニメーター、文筆家など多彩な顔を持つ。2015年8月17日、84歳で逝去。

アンクル編集子

ロイヤリティバンクの中の人。出版社勤務ののち独立し、雑誌やWEBなどに記事を執筆。柳原良平作品の素晴らしさに魅せられ、本コラムの連載を開始。

※編注
「船キチ」という表現は「尋常ではない船マニア」といったニュアンスを表しています。柳原良平が自著の中で、主に自身に対して頻繁に使用している表現ですが、そこに差別や侮蔑の意図はまったく感じられません。従って本コラムでは、他の言葉に置き換えず、あえて「船キチ」という単語をそのまま使用しています。   

参考文献
・『船旅絵日記』(徳間文庫)

ご協力いただいた方々

● 志澤政勝(しざわ・まさかつ) 1978年、 横浜海洋科学博物館の学芸員となり、同館の理事を務 めていた柳原良平と出会う。交友は柳原が亡くなるまで続いた。以後、横浜マリタイムミュージアム(現・横浜みなと博物館)でキャリアを積み、2015年、館長に就任。2019年に退職し、現在は 海事史などを研究している。    


参考文献

『船の画家 柳原良平』横浜マリタイムミュージアム(現・横浜みなと博物館)刊 

ご協力いただいた方

● 志澤政勝(しざわ・まさかつ) 1978年、 横浜海洋科学博物館の学芸員となり、同館の理事を務 めていた柳原良平と出会う。交友は柳原が亡くなるまで続いた。以後、横浜マリタイムミュージアム(現・横浜みなと博物館)でキャリアを積み、2015年、館長に就任。2019年に退職し、現在は 海事史などを研究している。                   

●中島淳子(なかじま・あつこ) 1976年、大阪商船三井船舶株式会社(現・株式会社商船三井)入 社。秘書室を経て広報室に異動し、以降は一貫してサイト管理や社内報・広報誌の制作を担当。 2002年にはサイト内に「柳原名誉船長ミュージアム」を設置。柳原作品の発注窓口となり、約13年にわたり文通のようなやりとりを続けた。

●大貫英則(おおぬき・ひでのり) 1982年、大阪商船三井船舶株式会社(現・株式会社商船三井)に入社。定期船・コンテナ船事業部門にて航路の運営・営業に従事したのち2000年に広報室に異動した際、作品依頼の打ち合わせで柳原と知り合う。以後、新造船の竣工式や貨物船取材乗船などに 柳原を招待するなどし、柳原と親交を深めた。



参考文献

・『柳原良平のわが人生』(如月出版)            

柳原良平主義 ~RyoheIZM~

アンクルトリス(アンクル船長)は2.5頭身。そして、ちびまる子ちゃんも2.5頭身だ。これに気づいたときは驚いた。気付いた自分を褒めてやりたい!

ちびまる子ちゃんの著者、さくらももこは、ちびまる子ちゃんのキャラクターを完成させるにあたって柳原良平、またはアンクルトリスを意識などしていなかっただろう。両者ともすでに故人となっているので知ることはできないが。

山口瞳といえば、寿屋(現サントリーホールディングス)時代の柳原良平の同僚であり、「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」の名コピーを考えた人物として、本稿の読者ならすでにご存知のことと思う。

レイを首にかけたアンクルトリスとハワイ各島のイラストによる地図、そこにこのコピーが配された新聞の広告やテレビCMは大きな反響を呼び、この年(1961年)の流行語となるほど広まった。

『冨嶽三十六景』などを代表作とする世界的にも著名な画家・葛飾北斎(1760年〜1849年)。少年時代から版画彫りで生計を立て、19歳で浮世絵界の一大勢力のひとつの門戸を叩き、ほどなくデビューを果たして以来、生涯で34,000点にも及ぶ作品を描いた浮世絵師だ。

アーティストはみな独自の個性を持っているが、その個性を確立するには、それぞれきっかけがあるようだ。たとえばゴッホの独特のタッチや印象的な黄色の使い方は、彼がパリからアルルに引っ越して「ひまわり」を描いたことがきっかけだと言われており、有名な作品はその時期以降に描かれたものが多い。

アルル以前のパリでは、モネやルノワールなどの印象派の画家たちをはじめ、スーラの点描や日本の浮世絵などに影響を受け、さまざまな技法を用いた作品を残したが、ひまわり以降の作品ほど評価は高くない。

海洋画家と呼ばれる、船や海、港を専門に描く画家がいる。高橋健一、飯塚羚児、亀山和明や野上隼夫、世界に目を向けるとイヴァン・アイヴァゾフスキーやウィリアム・ターナーなどなど、その数は多い。 柳原良平も当然そのひとりに数えられていると思ったのだが、彼のことを純粋な海洋画家と呼ぶ記述には出会ったことがない(他の海洋画家との比較はあったが)。
アーティストはみな、作品のオリジナリティにこだわる。だから、自分の作品のどこかの段階で、他人の手が入ることを嫌うタイプも少なくない。妥協を許さないアーティストの姿勢や、納得がいくまで何度もやり直したりする話に、感動を覚えることも多々ある。
破天荒な人生を送り、作品以上に人生(生き様)が面白がられる、そんなアーティストはたくさんいるが、柳原良平はその対極に位置するアーティストのように見える。
前回は柳原良平の人間性について書いたが、今回も他のエピソードを紹介しつつ、人物としての柳原に焦点を当てる。会社に甘えない 柳原が寿屋の正社員を辞め嘱託になったのは、漫画や装丁など他社の仕事をし始めたことがきっかけだったと前回書いた。周囲に気を使ったわけだが、まだ20代の身(28歳)で思い切った決断だ。
人間の品格やスタイルについて論じる書籍がさまざまなところから出ている。一冊も読んだことがないので、もしかしたらその解釈は、世の常識とはズレているかもしれない。しかしそれでも柳原良平は、品格のあるオシャレな大人だと、つくづく思う。今回は芸術家としてではなく、人としての柳原について。
柳原良平は多作だ。そして彼が絵を描く姿を見た人はみな、描く速さに驚く。速いから多くの作品を生み出せるのだ。今回は、柳原の描くスピードについて書く。 無言で描きまくる 柳原は現場主義。船でも景色でも、まずは現物をしっかり観察する。たとえば横浜港に豪華客船が入港すると、柳原はわざわざ小舟をチャーターし、さまざまな角度からその客船を眺めつつ、写真を撮り、そして筆を走らせる。そのフィールドワークにはカメラも必需品だった。
柳原良平は、アニメーションについても先進的な役割を果たしている。そこに登場するキャラクターとして生まれたのが1958年に登場したアンクルトリスだったということも、コラム(第2回)に書いた。今回は、アニメーション作家としての柳原にも触れておこう。 柳原は、1957年に日本公開された映画『八十日間世界一周』を観て、革命的デザイナーと称されたソール・バスが手がけたオープニング・シークエンスを発見し、衝撃を受ける。
リトグラフにおいては作家と刷り師との信頼関係が、作品の出来・不出来に大きく影響するという話を以前に書いた。工房のある広島県沼隈郡を訪れ、版に絵を描いて打ち合わせを済ませた柳原は、あとの工程を刷り師である佐道二郎氏に任せて横浜の自宅に戻る。
柳原良平による作品の、最も顕著な特徴はデフォルメだ。デフォルメについては以前、縦横や遠近の”圧縮”が技法として使われていることや、20世紀に活躍した欧米のデザイナーの影響などについて書いた。 しかしそれだけでは、どうにも物足りない。そこで柳原のたどった道をもう一度だけ振り返ってみる。
2023年の上半期に放送されたNHKの連続テレビ小説『らんまん』では、主人公の槙野万太郎(神木隆之介)が石版印刷の技術を駆使して植物図鑑を完成させた。この石版印刷は通称リトグラフと呼ばれ、微細な描写を再現できる画期的な印刷技術として、日本では明治以降にまたたく間に
柳原良平の多能ぶりについては過去にも述べたが、今回はその多能ついて、もう少し詳しく触れておきたい。 画家でもありデザイナーでもあったことは書いたが、たとえば画家としても柳原は、驚くほどさまざまな手法を駆使した作品を残している。それは
たとえばフィンランドの老舗ブランド、マリメッコの定番テキスタイルは、誰が見てもすぐにマリメッコとわかる。それはもちろんポピーの花をモチーフにした、例のウニッコ(Unikko)と呼ばれるデザイン・パターンのせいでもあるが、目が覚めるような鮮やかな色彩感覚にも原因があるのではないかと思う。
柳原良平の絵に現れる個性の背景には、デザイナーとして培ったデザイン感覚があると前回のコラムで書いた。だがアート界では、画家とデザイナーとの間には大きな隔たりがあったらしい。 たとえば前回登場した、フランスの革命的デザイナーとして著名なカッサンドルの場合、デザインの仕事は、絵画で身を立てるまでの生活の手段としか考えていなかったらしい。帝京大学名誉教授・岡部氏が
柳原良平の絵は、当たり前だが他とは異なったオリジナリティがある。どこが違うかはこれまでにも何度か書いてきたが、なぜ違うか、その理由についても知りたかった。 まず思い当たるのは、柳原は画家であるだけでなく、イラストレーターであり、漫画家であり、またデザイナー、装丁家でもあったこと。 元・横浜みなと博物館館長の志澤氏によれば、
『帆走客船』とだけ題された、ペンによって描かれた原画を見た。モノクロでシンプルな線画だが、マストや飛び出した船首、帆はもちろん、帆綱(ほづな)をはじめとする多くのロープに至るまで、きっちり描き込まれている。このあたりの細かさは、
先日また柳原作品の、原画を観る機会に恵まれた。『ナポリ港の「ミケランジェロ号」』と、珍しくタイトルが絵の中に書いてある、切り絵による作品だ。 晴れわたったナポリの空の下、穏やかな港内に浮かぶ名船ミケランジェロ号の姿がなんとも優雅で、ゆったりした時間の流れが感じられ、
柳原良平の描く船は、堂々たる威風を感じさせるというより、親しみやすく可愛らしいものが多い。この親しみやすさはどこから来るのか? またその親しみやすさを、どうやって表現していたのか? 元・横浜みなと博物館館長の志澤政勝氏は、それをひと言で表現してくれた。 「変形されてますよね? つまり圧縮です」
柳原良平の「船キチ」が、いつどのように育まれたのか知りたかった。ただ彼の少年時代を知っている人は、今となっては見つからなかった。その代わり『柳原良平のわが人生』の記述から、ヒントとなった箇所を紹介する。 戦後(1945年)占領軍の統制下にあった日本は、船舶を建造することができなかったが、1946年には小型船舶の建造許可が降りた。そして翌1947年、関西在住の中学生、柳原良平(15歳)は、
柳原良平は横浜を愛した。山手の丘の中腹に住み書斎兼作業部屋から港を見ながら多くの作品を生み出した(数年後、他の建築物のせいで港は見えなくなってしまったが)。そんな彼の作品が大好きな、横浜に社屋を構える会社の代表がいた。彼は、既存の自社商品をもう一段階盛り上げる起爆剤は、柳原良平が描く絵のパワーだとひらめいた。
さて、ついに船の話だ。どこから書こうか迷うほど柳原の船愛っぷり(=知識)はどこまでも広く深い。それは『船旅絵日記』(徳間文庫)などを一読すれば、その濃度に誰もが思い知る。 排水量(総トン数)や速度、乗客数、船籍、建造会社、オーナー会社(の遷移も)などのスペックはもちろん、各キャビンの位置がわかる図に加えて一等から三等までの船室料金に至るまで詳細に記述されている。もちろん調べたりメモしたりすればわかることだという意見もあろう。だが当時は、気楽に検索して調べることなど不可能な時代。調査方法も問い合わせ先も、自力で見つけ出すしかない。
線画は、柳原良平の作品における原点だ。彼にとってスケッチは日常であり、スケッチは線画から始まる。そして彼は、線画による味わい深い作品を数多く残している。 『三人のおまわりさん』(学研)の絵は、そんな挿絵を見ることのできる作品のひとつ。主人公である三人のおまわりさんは、三人とも例によって2頭身半で、ヒゲの向き以外はほぼ同じ顔なのだが、
前回は、1958年に誕生以来、半世紀を軽く超えて今なお大活躍する不滅のキャラクター「アンクルトリス」が誕生するまでについて書いた。こんな長く活躍するとは柳原良平ご本人さえ想像していなかったのでは? これは作品の内に、作者本人すら意識しない普遍性が備わっていたことの証と言える。つまり柳原良平の作品には「魅力という名の普遍性」が備わっている。
道は、自分で切り開く 船や港は、柳原良平が一生を通じて向き合ってきたテーマであり、その絵を前にすると誰もが、オリジナリティあふれる、柳原ならではの作風に魅了される。その魅力については今後、手を替え品を替え何度も書くことになろうが、その前にあえて、彼の作品のもうひとつの特徴である、人物画の面白さにスポットを当てておきたい。
柳原良平による船の絵。それはときに埠頭に停泊して浮かぶ豪華客船であったり、ときにクレーンで荷役作業中の力強いコンテナ船であったりする。作品によっては客船の甲板から手を振る旅客や、貨物船のブリッジで針路を見つめる船長が描かれていたり。 船自体の絵は写実的な絵とはかけ離れた作風にもかかわらず、

柳原良平主義 ~RyoheIZM~

アンクルトリス(アンクル船長)は2.5頭身。そして、ちびまる子ちゃんも2.5頭身だ。これに気づいたときは驚いた。気付いた自分を褒めてやりたい!

ちびまる子ちゃんの著者、さくらももこは、ちびまる子ちゃんのキャラクターを完成させるにあたって柳原良平、またはアンクルトリスを意識などしていなかっただろう。両者ともすでに故人となっているので知ることはできないが。

山口瞳といえば、寿屋(現サントリーホールディングス)時代の柳原良平の同僚であり、「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」の名コピーを考えた人物として、本稿の読者ならすでにご存知のことと思う。

レイを首にかけたアンクルトリスとハワイ各島のイラストによる地図、そこにこのコピーが配された新聞の広告やテレビCMは大きな反響を呼び、この年(1961年)の流行語となるほど広まった。

『冨嶽三十六景』などを代表作とする世界的にも著名な画家・葛飾北斎(1760年〜1849年)。少年時代から版画彫りで生計を立て、19歳で浮世絵界の一大勢力のひとつの門戸を叩き、ほどなくデビューを果たして以来、生涯で34,000点にも及ぶ作品を描いた浮世絵師だ。

アーティストはみな独自の個性を持っているが、その個性を確立するには、それぞれきっかけがあるようだ。たとえばゴッホの独特のタッチや印象的な黄色の使い方は、彼がパリからアルルに引っ越して「ひまわり」を描いたことがきっかけだと言われており、有名な作品はその時期以降に描かれたものが多い。

アルル以前のパリでは、モネやルノワールなどの印象派の画家たちをはじめ、スーラの点描や日本の浮世絵などに影響を受け、さまざまな技法を用いた作品を残したが、ひまわり以降の作品ほど評価は高くない。

海洋画家と呼ばれる、船や海、港を専門に描く画家がいる。高橋健一、飯塚羚児、亀山和明や野上隼夫、世界に目を向けるとイヴァン・アイヴァゾフスキーやウィリアム・ターナーなどなど、その数は多い。 柳原良平も当然そのひとりに数えられていると思ったのだが、彼のことを純粋な海洋画家と呼ぶ記述には出会ったことがない(他の海洋画家との比較はあったが)。
アーティストはみな、作品のオリジナリティにこだわる。だから、自分の作品のどこかの段階で、他人の手が入ることを嫌うタイプも少なくない。妥協を許さないアーティストの姿勢や、納得がいくまで何度もやり直したりする話に、感動を覚えることも多々ある。
破天荒な人生を送り、作品以上に人生(生き様)が面白がられる、そんなアーティストはたくさんいるが、柳原良平はその対極に位置するアーティストのように見える。
前回は柳原良平の人間性について書いたが、今回も他のエピソードを紹介しつつ、人物としての柳原に焦点を当てる。会社に甘えない 柳原が寿屋の正社員を辞め嘱託になったのは、漫画や装丁など他社の仕事をし始めたことがきっかけだったと前回書いた。周囲に気を使ったわけだが、まだ20代の身(28歳)で思い切った決断だ。
人間の品格やスタイルについて論じる書籍がさまざまなところから出ている。一冊も読んだことがないので、もしかしたらその解釈は、世の常識とはズレているかもしれない。しかしそれでも柳原良平は、品格のあるオシャレな大人だと、つくづく思う。今回は芸術家としてではなく、人としての柳原について。
柳原良平は多作だ。そして彼が絵を描く姿を見た人はみな、描く速さに驚く。速いから多くの作品を生み出せるのだ。今回は、柳原の描くスピードについて書く。 無言で描きまくる 柳原は現場主義。船でも景色でも、まずは現物をしっかり観察する。たとえば横浜港に豪華客船が入港すると、柳原はわざわざ小舟をチャーターし、さまざまな角度からその客船を眺めつつ、写真を撮り、そして筆を走らせる。そのフィールドワークにはカメラも必需品だった。
柳原良平は、アニメーションについても先進的な役割を果たしている。そこに登場するキャラクターとして生まれたのが1958年に登場したアンクルトリスだったということも、コラム(第2回)に書いた。今回は、アニメーション作家としての柳原にも触れておこう。 柳原は、1957年に日本公開された映画『八十日間世界一周』を観て、革命的デザイナーと称されたソール・バスが手がけたオープニング・シークエンスを発見し、衝撃を受ける。
リトグラフにおいては作家と刷り師との信頼関係が、作品の出来・不出来に大きく影響するという話を以前に書いた。工房のある広島県沼隈郡を訪れ、版に絵を描いて打ち合わせを済ませた柳原は、あとの工程を刷り師である佐道二郎氏に任せて横浜の自宅に戻る。
柳原良平による作品の、最も顕著な特徴はデフォルメだ。デフォルメについては以前、縦横や遠近の”圧縮”が技法として使われていることや、20世紀に活躍した欧米のデザイナーの影響などについて書いた。 しかしそれだけでは、どうにも物足りない。そこで柳原のたどった道をもう一度だけ振り返ってみる。
2023年の上半期に放送されたNHKの連続テレビ小説『らんまん』では、主人公の槙野万太郎(神木隆之介)が石版印刷の技術を駆使して植物図鑑を完成させた。この石版印刷は通称リトグラフと呼ばれ、微細な描写を再現できる画期的な印刷技術として、日本では明治以降にまたたく間に
柳原良平の多能ぶりについては過去にも述べたが、今回はその多能ついて、もう少し詳しく触れておきたい。 画家でもありデザイナーでもあったことは書いたが、たとえば画家としても柳原は、驚くほどさまざまな手法を駆使した作品を残している。それは
たとえばフィンランドの老舗ブランド、マリメッコの定番テキスタイルは、誰が見てもすぐにマリメッコとわかる。それはもちろんポピーの花をモチーフにした、例のウニッコ(Unikko)と呼ばれるデザイン・パターンのせいでもあるが、目が覚めるような鮮やかな色彩感覚にも原因があるのではないかと思う。
柳原良平の絵に現れる個性の背景には、デザイナーとして培ったデザイン感覚があると前回のコラムで書いた。だがアート界では、画家とデザイナーとの間には大きな隔たりがあったらしい。 たとえば前回登場した、フランスの革命的デザイナーとして著名なカッサンドルの場合、デザインの仕事は、絵画で身を立てるまでの生活の手段としか考えていなかったらしい。帝京大学名誉教授・岡部氏が
柳原良平の絵は、当たり前だが他とは異なったオリジナリティがある。どこが違うかはこれまでにも何度か書いてきたが、なぜ違うか、その理由についても知りたかった。 まず思い当たるのは、柳原は画家であるだけでなく、イラストレーターであり、漫画家であり、またデザイナー、装丁家でもあったこと。 元・横浜みなと博物館館長の志澤氏によれば、
『帆走客船』とだけ題された、ペンによって描かれた原画を見た。モノクロでシンプルな線画だが、マストや飛び出した船首、帆はもちろん、帆綱(ほづな)をはじめとする多くのロープに至るまで、きっちり描き込まれている。このあたりの細かさは、
先日また柳原作品の、原画を観る機会に恵まれた。『ナポリ港の「ミケランジェロ号」』と、珍しくタイトルが絵の中に書いてある、切り絵による作品だ。 晴れわたったナポリの空の下、穏やかな港内に浮かぶ名船ミケランジェロ号の姿がなんとも優雅で、ゆったりした時間の流れが感じられ、
柳原良平の描く船は、堂々たる威風を感じさせるというより、親しみやすく可愛らしいものが多い。この親しみやすさはどこから来るのか? またその親しみやすさを、どうやって表現していたのか? 元・横浜みなと博物館館長の志澤政勝氏は、それをひと言で表現してくれた。 「変形されてますよね? つまり圧縮です」
柳原良平の「船キチ」が、いつどのように育まれたのか知りたかった。ただ彼の少年時代を知っている人は、今となっては見つからなかった。その代わり『柳原良平のわが人生』の記述から、ヒントとなった箇所を紹介する。 戦後(1945年)占領軍の統制下にあった日本は、船舶を建造することができなかったが、1946年には小型船舶の建造許可が降りた。そして翌1947年、関西在住の中学生、柳原良平(15歳)は、
柳原良平は横浜を愛した。山手の丘の中腹に住み書斎兼作業部屋から港を見ながら多くの作品を生み出した(数年後、他の建築物のせいで港は見えなくなってしまったが)。そんな彼の作品が大好きな、横浜に社屋を構える会社の代表がいた。彼は、既存の自社商品をもう一段階盛り上げる起爆剤は、柳原良平が描く絵のパワーだとひらめいた。
さて、ついに船の話だ。どこから書こうか迷うほど柳原の船愛っぷり(=知識)はどこまでも広く深い。それは『船旅絵日記』(徳間文庫)などを一読すれば、その濃度に誰もが思い知る。 排水量(総トン数)や速度、乗客数、船籍、建造会社、オーナー会社(の遷移も)などのスペックはもちろん、各キャビンの位置がわかる図に加えて一等から三等までの船室料金に至るまで詳細に記述されている。もちろん調べたりメモしたりすればわかることだという意見もあろう。だが当時は、気楽に検索して調べることなど不可能な時代。調査方法も問い合わせ先も、自力で見つけ出すしかない。
線画は、柳原良平の作品における原点だ。彼にとってスケッチは日常であり、スケッチは線画から始まる。そして彼は、線画による味わい深い作品を数多く残している。 『三人のおまわりさん』(学研)の絵は、そんな挿絵を見ることのできる作品のひとつ。主人公である三人のおまわりさんは、三人とも例によって2頭身半で、ヒゲの向き以外はほぼ同じ顔なのだが、
前回は、1958年に誕生以来、半世紀を軽く超えて今なお大活躍する不滅のキャラクター「アンクルトリス」が誕生するまでについて書いた。こんな長く活躍するとは柳原良平ご本人さえ想像していなかったのでは? これは作品の内に、作者本人すら意識しない普遍性が備わっていたことの証と言える。つまり柳原良平の作品には「魅力という名の普遍性」が備わっている。
道は、自分で切り開く 船や港は、柳原良平が一生を通じて向き合ってきたテーマであり、その絵を前にすると誰もが、オリジナリティあふれる、柳原ならではの作風に魅了される。その魅力については今後、手を替え品を替え何度も書くことになろうが、その前にあえて、彼の作品のもうひとつの特徴である、人物画の面白さにスポットを当てておきたい。
柳原良平による船の絵。それはときに埠頭に停泊して浮かぶ豪華客船であったり、ときにクレーンで荷役作業中の力強いコンテナ船であったりする。作品によっては客船の甲板から手を振る旅客や、貨物船のブリッジで針路を見つめる船長が描かれていたり。 船自体の絵は写実的な絵とはかけ離れた作風にもかかわらず、