柳原良平主義 ~RyoheIZM~11
柳原良平主義 ~RyoheIZM~11
Sep 14, 2023
デザイナーの視点
デザイナーの視点
マルチ・アーティスト、柳原良平
マルチ・アーティスト、柳原良平
柳原良平の絵は、当たり前だが他とは異なったオリジナリティがある。どこが違うかはこれまでにも何度か書いてきたが、なぜ違うか、その理由についても知りたかった。
まず思い当たるのは、柳原は画家であるだけでなく、イラストレーターであり、漫画家であり、またデザイナー、装丁家でもあったこと。
元・横浜みなと博物館館長の志澤氏によれば、そういう人は他にいないと言う。寿屋の宣伝部では絵を描いたが、デザインもしていた。新聞広告やポスターなどでイラストを描くということは、必然的にデザイン的な要素も入ってくる。
柳原良平の絵は、当たり前だが他とは異なったオリジナリティがある。どこが違うかはこれまでにも何度か書いてきたが、なぜ違うか、その理由についても知りたかった。
まず思い当たるのは、柳原は画家であるだけでなく、イラストレーターであり、漫画家であり、またデザイナー、装丁家でもあったこと。
元・横浜みなと博物館館長の志澤氏によれば、そういう人は他にいないと言う。寿屋の宣伝部では絵を描いたが、デザインもしていた。新聞広告やポスターなどでイラストを描くということは、必然的にデザイン的な要素も入ってくる。
広告で必要なのは
「先生は元々デザイナーでしたけど、広告屋だったでしょ? 広告屋っていうのは、伝えたいメッセージを簡潔に消費者に届けなきゃいけない。届けた上で買ってもらわなければならない。そのためにどうするかというと、伝えるものは、なるべく簡潔、単純にするんです」
広告はじっくり見せるものでも、じっくり読ませるものでもなく、瞬間的に目に飛び込ませるもの。人は0.5秒で興味の有無を判断するという。瞬間の勝負に勝ち残った商品やサービスだけが売れてゆく。どのメディアを見ても街中を歩いても、どこも広告にあふれているから、勝ち残るのは大変だ。
欧米デザイナーの影響
広告で必要なのは
柳原は、欧米のデザイナーに強く影響を受けた。たとえばカッサンドルというグラフィック・デザイナーの『ノルマンディー』という船のポスターなど、そのシンメトリックな構図と漂ってくる気高さで、今見ても鮮烈なインパクトがあり、柳原に影響を及ぼしたひとりと聞く。帝京大学名誉教授の岡部氏が説明してくれた。
「1920〜30年のアール・デコと言われた時代に、かっこいいポスターをいくつも作った、フランスの革命的デザイナーです。イブ・サンローランのロゴを作った人でもありますね」
「先生は元々デザイナーでしたけど、広告屋だったでしょ? 広告屋っていうのは、伝えたいメッセージを簡潔に消費者に届けなきゃいけない。届けた上で買ってもらわなければならない。そのためにどうするかというと、伝えるものは、なるべく簡潔、単純にするんです」
広告はじっくり見せるものでも、じっくり読ませるものでもなく、瞬間的に目に飛び込ませるもの。人は0.5秒で興味の有無を判断するという。瞬間の勝負に勝ち残った商品やサービスだけが売れてゆく。どのメディアを見ても街中を歩いても、どこも広告にあふれているから、勝ち残るのは大変だ。
欧米デザイナーの影響
柳原は、欧米のデザイナーに強く影響を受けた。たとえばカッサンドルというグラフィック・デザイナーの『ノルマンディー』という船のポスターなど、そのシンメトリックな構図と漂ってくる気高さで、今見ても鮮烈なインパクトがあり、柳原に影響を及ぼしたひとりと聞く。帝京大学名誉教授の岡部氏が説明してくれた。
「1920〜30年のアール・デコと言われた時代に、かっこいいポスターをいくつも作った、フランスの革命的デザイナーです。イブ・サンローランのロゴを作った人でもありますね」
デザイン全盛時代
そして1950〜60年代になってくると、基本的に請負業であったデザイナーが、芸術家として見られるようになる。岡部氏は続ける。
「デザイナーという存在が注目されるようになり、表舞台に出てきたんです。グラフィック・デザイナーとイラストレーターが社会的に認められて、地位を獲得して、ギャラも良くなった。絵画や舞台衣装などを含め、社会で美術的とされるものの中で、デザイナーが先端に躍り出て、世界的にもリーダーになったんです」
この時代は日本にとっては戦後復興期にあたり、その時期から活躍していた柳原は、デザインが世の中を席巻し、時代を引っ張ったことを強く自覚していたに違いない。そんな中で生まれたのが”アンクルトリス”だ。岡部氏は、アンクルトリス誕生の秘密を、別な角度から説明してくれた。
「柳原さんのアンクルトリスは、ソール・バスっていうアメリカのデザイナーの影響を受けて生まれたものなんです。雑誌で柳原さんがそう打ち明けた記事があるんです。ほら、ここに」
と言って雑誌『サライ』を見せてくれた。そこにはこう書かれている。
『僕のトレードマークみたいなアンクルトリス。あれはアメリカの偉大なデザイナー、ソール・バスに影響されて生まれたんです。ディズニーとは違う鋭角的な線を描く人で(以下省略)』(『サライ』2001年7月5日号)
デザイン全盛時代
そして1950〜60年代になってくると、基本的に請負業であったデザイナーが、芸術家として見られるようになる。岡部氏は続ける。
「デザイナーという存在が注目されるようになり、表舞台に出てきたんです。グラフィック・デザイナーとイラストレーターが社会的に認められて、地位を獲得して、ギャラも良くなった。絵画や舞台衣装などを含め、社会で美術的とされるものの中で、デザイナーが先端に躍り出て、世界的にもリーダーになったんです」
この時代は日本にとっては戦後復興期にあたり、その時期から活躍していた柳原は、デザインが世の中を席巻し、時代を引っ張ったことを強く自覚していたに違いない。そんな中で生まれたのが”アンクルトリス”だ。岡部氏は、アンクルトリス誕生の秘密を、別な角度から説明してくれた。
「柳原さんのアンクルトリスは、ソール・バスっていうアメリカのデザイナーの影響を受けて生まれたものなんです。雑誌で柳原さんがそう打ち明けた記事があるんです。ほら、ここに」
と言って雑誌『サライ』を見せてくれた。そこにはこう書かれている。
『僕のトレードマークみたいなアンクルトリス。あれはアメリカの偉大なデザイナー、ソール・バスに影響されて生まれたんです。ディズニーとは違う鋭角的な線を描く人で(以下省略)』(『サライ』2001年7月5日号)
米国の風景を変えたソール・バス
ソール・バスとは、コマーシャルアート界のピカソと呼ばれた人物だが、岡部氏によれば、映画のタイトルバックやオープニング・シークエンスなどでも有名で、ヒッチコックやキューブリック、スコセッシといった錚々たる監督の映画において、作品を印象付けるのにも重要な役割を果たしているそうだ。誰もが知る身近な例では、こんなのもあるそうだ。
「ソール・バスは、日本での仕事としては企業のCIをやってますね。有名なのは味の素とかコーセー化粧品、京王百貨店のマークと包装紙。京王百貨店はいまだに鳩のマークの包装紙を使ってますよね。ソール・バスへのリスペクトを感じます」
京王百貨店の包装紙もそうだが、コーセー化粧品に付いている、角が丸まった二つの長方形で表現されたあのマークが、ソール・バスによるものとは初めて知った。あれが"K"に見えるからデザインは不思議だ。
「アンクルトリスがソール・バスの影響を受けたという記事を読んで、直感的にそうだなあって思いましたよ。『八十日間世界一周』(1956年)っていう映画がありましてね。本編に入る前にタイトル・クレジットを兼ねて、気球で世界一周してるアニメーション部分(オープニング・シークエンス)があるんですが、それを作ったのがソール・バスなんです。柳原さんの場合、デザイナーとしてソール・バスを発見したんじゃなくて、映画を観て衝撃を受けたって別の雑誌で言ってます。そう言えば『八十日間〜』の冒頭部ってのはペン画によるもので、手書きの細い線が描かれています。もちろん人物はデフォルメされており、それが世界を旅するという」
アニメーションに刺激を受けたとは、なるほどと思った。アンクルトリスも、元はテレビCMを想定したアニメーションがきっかけで生まれたキャラクターだからだ。
柳原がつかんだもの
もちろん、だからといって、アンクルトリスがソール・バスの描くキャクターに似ているわけでは決してない。柳原は、影響されてキャラクターを真似るようなことはしない。崩し方、シンプル化するにあたってのヒントを得たのでは?と岡部氏は言う。
では画家でもありデザイナーでもある柳原は、デザインの潮流から見ると、どんなタイプに分類されるのだろうか。その点についても岡部氏に尋ねてみよう。
「今ソール・バスなど、あの時期活躍したアメリカのデザイナーを、どういうふうに位置付けているかというと、モダニズムとフォーク・アートのグラフィック・デザインというくくりになるんですよ。1950年代〜60年代のアメリカのグラフィック・アートのひとつの傾向です。モダニズム、つまりアバンギャルドなものと、フォーク・アート、つまり民衆芸術の要素を両方とり入れたグラフィック・デザインというね。ソール・バスもちょっと素朴なところがあって、柳原さんが持っている要素・特徴も、そこに繋がっているのではないかと」
モダンでありながら素朴。柳原良平の作風をこれほど短く、的確に言い当てる言葉はないと思った。(以下、次号)
米国の風景を変えたソール・バス
ソール・バスとは、コマーシャルアート界のピカソと呼ばれた人物だが、岡部氏によれば、映画のタイトルバックやオープニング・シークエンスなどでも有名で、ヒッチコックやキューブリック、スコセッシといった錚々たる監督の映画において、作品を印象付けるのにも重要な役割を果たしているそうだ。誰もが知る身近な例では、こんなのもあるそうだ。
「ソール・バスは、日本での仕事としては企業のCIをやってますね。有名なのは味の素とかコーセー化粧品、京王百貨店のマークと包装紙。京王百貨店はいまだに鳩のマークの包装紙を使ってますよね。ソール・バスへのリスペクトを感じます」
京王百貨店の包装紙もそうだが、コーセー化粧品に付いている、角が丸まった二つの長方形で表現されたあのマークが、ソール・バスによるものとは初めて知った。あれが"K"に見えるからデザインは不思議だ。
「アンクルトリスがソール・バスの影響を受けたという記事を読んで、直感的にそうだなあって思いましたよ。『八十日間世界一周』(1956年)っていう映画がありましてね。本編に入る前にタイトル・クレジットを兼ねて、気球で世界一周してるアニメーション部分(オープニング・シークエンス)があるんですが、それを作ったのがソール・バスなんです。柳原さんの場合、デザイナーとしてソール・バスを発見したんじゃなくて、映画を観て衝撃を受けたって別の雑誌で言ってます。そう言えば『八十日間〜』の冒頭部ってのはペン画によるもので、手書きの細い線が描かれています。もちろん人物はデフォルメされており、それが世界を旅するという」
アニメーションに刺激を受けたとは、なるほどと思った。アンクルトリスも、元はテレビCMを想定したアニメーションがきっかけで生まれたキャラクターだからだ。
柳原がつかんだもの
もちろん、だからといって、アンクルトリスがソール・バスの描くキャクターに似ているわけでは決してない。柳原は、影響されてキャラクターを真似るようなことはしない。崩し方、シンプル化するにあたってのヒントを得たのでは?と岡部氏は言う。
では画家でもありデザイナーでもある柳原は、デザインの潮流から見ると、どんなタイプに分類されるのだろうか。その点についても岡部氏に尋ねてみよう。
「今ソール・バスなど、あの時期活躍したアメリカのデザイナーを、どういうふうに位置付けているかというと、モダニズムとフォーク・アートのグラフィック・デザインというくくりになるんですよ。1950年代〜60年代のアメリカのグラフィック・アートのひとつの傾向です。モダニズム、つまりアバンギャルドなものと、フォーク・アート、つまり民衆芸術の要素を両方とり入れたグラフィック・デザインというね。ソール・バスもちょっと素朴なところがあって、柳原さんが持っている要素・特徴も、そこに繋がっているのではないかと」
モダンでありながら素朴。柳原良平の作風をこれほど短く、的確に言い当てる言葉はないと思った。(以下、次号)
アンクル編集子
※編注
「船キチ」という表現は「尋常ではない船マニア」といったニュアンスを表しています。柳原良平が自著の中で、主に自身に対して頻繁に使用している表現ですが、そこに差別や侮蔑の意図はまったく感じられません。従って本コラムでは、他の言葉に置き換えず、あえて「船キチ」という単語をそのまま使用しています。
柳原良平(やなぎはら・りょうへい)
アンクル編集子
※編注
「船キチ」という表現は「尋常ではない船マニア」といったニュアンスを表しています。柳原良平が自著の中で、主に自身に対して頻繁に使用している表現ですが、そこに差別や侮蔑の意図はまったく感じられません。従って本コラムでは、他の言葉に置き換えず、あえて「船キチ」という単語をそのまま使用しています。
ご協力いただいた方々
● 志澤政勝(しざわ・まさかつ) 1978年、 横浜海洋科学博物館の学芸員となり、同館の理事を務めていた柳原良平と出会う。交友は柳原が亡くなるまで続いた。以後、横浜マリタイムミュージアム(現・横浜みなと博物館)でキャリアを積み、2015年、館長に就任。2019年に退職し、現在は 海事史などを研究している。
●岡部昌幸(おかべ・まさゆき) 1957年、横浜生まれ。少年期より地元横浜の美術と港・船の文化、歴史に関心を持つ。1984年、横浜市美術館の準備室に学芸員として勤務し、地域文化のサロンを通じて柳原良平と交遊。1992年、帝京大学文学部史学科専任講師(美術史)に就任。現・帝京大学文学部名誉教授、群馬県立近代美術館特別館長。
ご協力いただいた方々
● 志澤政勝(しざわ・まさかつ) 1978年、 横浜海洋科学博物館の学芸員となり、同館の理事を務めていた柳原良平と出会う。交友は柳原が亡くなるまで続いた。以後、横浜マリタイムミュージアム(現・横浜みなと博物館)でキャリアを積み、2015年、館長に就任。2019年に退職し、現在は 海事史などを研究している。
●岡部昌幸(おかべ・まさゆき) 1957年、横浜生まれ。少年期より地元横浜の美術と港・船の文化、歴史に関心を持つ。1984年、横浜市美術館の準備室に学芸員として勤務し、地域文化のサロンを通じて柳原良平と交遊。1992年、帝京大学文学部史学科専任講師(美術史)に就任。現・帝京大学文学部名誉教授、群馬県立近代美術館特別館長。
柳原良平原画・複製画
柳原良平原画・複製画
柳原良平アクリルフォト
柳原良平アクリルフォト
柳原良平主義 ~RyoheIZM~
アンクルトリス(アンクル船長)は2.5頭身。そして、ちびまる子ちゃんも2.5頭身だ。これに気づいたときは驚いた。気付いた自分を褒めてやりたい!
ちびまる子ちゃんの著者、さくらももこは、ちびまる子ちゃんのキャラクターを完成させるにあたって柳原良平、またはアンクルトリスを意識などしていなかっただろう。両者ともすでに故人となっているので知ることはできないが。
山口瞳といえば、寿屋(現サントリーホールディングス)時代の柳原良平の同僚であり、「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」の名コピーを考えた人物として、本稿の読者ならすでにご存知のことと思う。
レイを首にかけたアンクルトリスとハワイ各島のイラストによる地図、そこにこのコピーが配された新聞の広告やテレビCMは大きな反響を呼び、この年(1961年)の流行語となるほど広まった。
アーティストはみな独自の個性を持っているが、その個性を確立するには、それぞれきっかけがあるようだ。たとえばゴッホの独特のタッチや印象的な黄色の使い方は、彼がパリからアルルに引っ越して「ひまわり」を描いたことがきっかけだと言われており、有名な作品はその時期以降に描かれたものが多い。
アルル以前のパリでは、モネやルノワールなどの印象派の画家たちをはじめ、スーラの点描や日本の浮世絵などに影響を受け、さまざまな技法を用いた作品を残したが、ひまわり以降の作品ほど評価は高くない。
柳原良平主義 ~RyoheIZM~
アンクルトリス(アンクル船長)は2.5頭身。そして、ちびまる子ちゃんも2.5頭身だ。これに気づいたときは驚いた。気付いた自分を褒めてやりたい!
ちびまる子ちゃんの著者、さくらももこは、ちびまる子ちゃんのキャラクターを完成させるにあたって柳原良平、またはアンクルトリスを意識などしていなかっただろう。両者ともすでに故人となっているので知ることはできないが。
山口瞳といえば、寿屋(現サントリーホールディングス)時代の柳原良平の同僚であり、「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」の名コピーを考えた人物として、本稿の読者ならすでにご存知のことと思う。
レイを首にかけたアンクルトリスとハワイ各島のイラストによる地図、そこにこのコピーが配された新聞の広告やテレビCMは大きな反響を呼び、この年(1961年)の流行語となるほど広まった。
アーティストはみな独自の個性を持っているが、その個性を確立するには、それぞれきっかけがあるようだ。たとえばゴッホの独特のタッチや印象的な黄色の使い方は、彼がパリからアルルに引っ越して「ひまわり」を描いたことがきっかけだと言われており、有名な作品はその時期以降に描かれたものが多い。
アルル以前のパリでは、モネやルノワールなどの印象派の画家たちをはじめ、スーラの点描や日本の浮世絵などに影響を受け、さまざまな技法を用いた作品を残したが、ひまわり以降の作品ほど評価は高くない。