柳原良平主義 ~RyoheIZM~12
柳原良平主義 ~RyoheIZM~12
Sep 21, 2023
画家?デザイナー?
画家?デザイナー?
両者の隔たり
両者の隔たり
柳原良平の絵に現れる個性の背景には、デザイナーとして培ったデザイン感覚があると前回のコラムで書いた。だがアート界では、画家とデザイナーとの間には大きな隔たりがあったらしい。
たとえば前回登場した、フランスの革命的デザイナーとして著名なカッサンドルの場合、デザインの仕事は、絵画で身を立てるまでの生活の手段としか考えていなかったらしい。帝京大学名誉教授・岡部氏が説明してくれた。
「カッサンドルっていうのは偽名ですからね。本名はムーロンって名前。ポスターの作家はペンネームでやってたわけです。だってムーロンって名乗っちゃうと、画家であることがバレちゃいますから」
デザイナー、特に広告デザイナーの場合、作品それ自体の芸術性より広告効果に重きが置かれる。カッサンドルは、純粋な芸術性で勝負する絵画のほうが神聖、あるいはランクが上と考えていた。
この辺りは、映画『ニュー・シネマ・パラダイス』をはじめ多くの映画音楽で世界から絶賛されたエンリオ・モリコーネが、実は映画音楽の仕事をやるのは生活のためであり、引き受けることに屈辱を感じていたというのに酷似しており、面白い。
柳原良平の絵に現れる個性の背景には、デザイナーとして培ったデザイン感覚があると前回のコラムで書いた。だがアート界では、画家とデザイナーとの間には大きな隔たりがあったらしい。
たとえば前回登場した、フランスの革命的デザイナーとして著名なカッサンドルの場合、デザインの仕事は、絵画で身を立てるまでの生活の手段としか考えていなかったらしい。帝京大学名誉教授・岡部氏が説明してくれた。
「カッサンドルっていうのは偽名ですからね。本名はムーロンって名前。ポスターの作家はペンネームでやってたわけです。だってムーロンって名乗っちゃうと、画家であることがバレちゃいますから」
デザイナー、特に広告デザイナーの場合、作品それ自体の芸術性より広告効果に重きが置かれる。カッサンドルは、純粋な芸術性で勝負する絵画のほうが神聖、あるいはランクが上と考えていた。
この辺りは、映画『ニュー・シネマ・パラダイス』をはじめ多くの映画音楽で世界から絶賛されたエンリオ・モリコーネが、実は映画音楽の仕事をやるのは生活のためであり、引き受けることに屈辱を感じていたというのに酷似しており、面白い。
横尾忠則の画家宣言
日本でもそうした風潮はあったようだが、どちらが上か下かいうこと以前に、両者はまったく異なるとの認識がアート界の常識だったようだ。元・横浜みなと博物館館長の志澤氏は、横尾忠則を例に出してデザイナーと画家を比較する。
「デザイナーやイラストレーターが作る作品と、絵画のようなファイン・アートっていうのは距離があるんです。だからイラストレーターとして、またグラフィック・デザイナーとして著名だった横尾忠則は、途中でわざわざ画家宣言をしましたよね。これから私は画家になりますって。それくらい絵を描くってことに対する、そもそもの出発点が違うんです。イラストレーターやデザイナーは注文があって、その注文に合わせて描く。画家は自分が描きたいものを描いて、できたものを買いたい人はどうぞってスタンスだから。ここが違う」
柳原の5歳下にあたる横尾忠則は、各賞を総なめにしたグラフィック・デザイナーとして、1970年代の日本のアート界を牽引する輝かしい存在だったが、1980年にニューヨーク近代美術館で開催されたピカソ展に行き突然、画家宣言をするに至った。横尾は、美術館を食品工場になぞらえ、豚(である自分)が美術館に入り、2時間後に出てきたときはハムになっていたと語った。つまり、まったくの別物に生まれ変わったという宣言だった。
柳原のスタンスは?
横尾忠則の画家宣言
この落差の大きさを、マルチ・アーティスト柳原良平は意識しなかったのだろうか? そういう風潮やアートの流れに、あれだけ活躍していた柳原が気づかぬはずはない。と思っていたら、それについての志澤氏のコメントが明快だった。
「先生は何も気にしないで、そのへん軽々と使い分けてました。スタイルや技法については、油絵とイラストレーションで、どっちが上とか下とか、そういうふうには考えてなかったみたいです。フラットだったと思います。ですからね、ああいう人は少ない、というか、いないと思いますよ」
日本でもそうした風潮はあったようだが、どちらが上か下かいうこと以前に、両者はまったく異なるとの認識がアート界の常識だったようだ。元・横浜みなと博物館館長の志澤氏は、横尾忠則を例に出してデザイナーと画家を比較する。
「デザイナーやイラストレーターが作る作品と、絵画のようなファイン・アートっていうのは距離があるんです。だからイラストレーターとして、またグラフィック・デザイナーとして著名だった横尾忠則は、途中でわざわざ画家宣言をしましたよね。これから私は画家になりますって。それくらい絵を描くってことに対する、そもそもの出発点が違うんです。イラストレーターやデザイナーは注文があって、その注文に合わせて描く。画家は自分が描きたいものを描いて、できたものを買いたい人はどうぞってスタンスだから。ここが違う」
柳原の5歳下にあたる横尾忠則は、各賞を総なめにしたグラフィック・デザイナーとして、1970年代の日本のアート界を牽引する輝かしい存在だったが、1980年にニューヨーク近代美術館で開催されたピカソ展に行き突然、画家宣言をするに至った。横尾は、美術館を食品工場になぞらえ、豚(である自分)が美術館に入り、2時間後に出てきたときはハムになっていたと語った。つまり、まったくの別物に生まれ変わったという宣言だった。
柳原のスタンスは?
この落差の大きさを、マルチ・アーティスト柳原良平は意識しなかったのだろうか? そういう風潮やアートの流れに、あれだけ活躍していた柳原が気づかぬはずはない。と思っていたら、それについての志澤氏のコメントが明快だった。
「先生は何も気にしないで、そのへん軽々と使い分けてました。スタイルや技法については、油絵とイラストレーションで、どっちが上とか下とか、そういうふうには考えてなかったみたいです。フラットだったと思います。ですからね、ああいう人は少ない、というか、いないと思いますよ」
宣言しても、しなくても
横尾忠則の画家宣言については、前出の岡部氏の話にも出てきた。岡部氏の観点は、宣言前と後における作品に通底する、アーティスト固有のスタイルについてだ。
「横尾忠則は、1970年代まではポスターとかのデザイナーでしたよね。でも1980年に画家宣言したでしょう? 当時はデザイナーがアート・シーンのトップに躍り出たので、時代に逆行してるなと感じました。けれども彼は画家として認められた。それは、若くハジけてたときの彼らしい感覚を残しながら描いたからでしょうね」
さらに岡部氏はその前後の共通性を、異なった技法で描かれた柳原作品における共通性にも重ね合わせる。
「柳原さんは、写実的な(船の)油絵も描いてますけど、柳原さんならではのスタイルを残していますよね。少しデフォルメしたり、圧縮したりして。だから最終的には油彩も柳原良平スタイルで描いてます。そこが新しいし、だから人気があるんだと思います。ぴったりのたとえではないけど、どんな作品にもその人の個性が現れるという意味で、柳原さんもちょっと横尾忠則さんと似てると思います」
5歳違いというこの二人は、同世代と言い切るには少し離れているものの、世代間のギャップをもって語るほど、生きてきたシーンはズレていないはずだ。1970年代には、デザイナーとして賞の争奪をするライバルと目されても不思議ではないが、実際にはどうだったのだろう。(以下、次号)
アンクル編集子
※編注
「船キチ」という表現は「尋常ではない船マニア」といったニュアンスを表しています。柳原良平が自著の中で、主に自身に対して頻繁に使用している表現ですが、そこに差別や侮蔑の意図はまったく感じられません。従って本コラムでは、他の言葉に置き換えず、あえて「船キチ」という単語をそのまま使用しています。
柳原良平(やなぎはら・りょうへい)
アンクル編集子
※編注
「船キチ」という表現は「尋常ではない船マニア」といったニュアンスを表しています。柳原良平が自著の中で、主に自身に対して頻繁に使用している表現ですが、そこに差別や侮蔑の意図はまったく感じられません。従って本コラムでは、他の言葉に置き換えず、あえて「船キチ」という単語をそのまま使用しています。
ご協力いただいた方々
●岡部昌幸(おかべ・まさゆき) 1957年、横浜生まれ。少年期より地元横浜の美術と港・船の文化、歴史に関心を持つ。1984年、横浜市美術館の準備室に学芸員として勤務し、地域文化のサロンを通じて柳原良平と交遊。1992年、帝京大学文学部史学科専任講師(美術史)に就任。現・帝京大学文学部名誉教授、群馬県立近代美術館特別館長。
● 志澤政勝(しざわ・まさかつ) 1978年、 横浜海洋科学博物館の学芸員となり、同館の理事を務
めていた柳原良平と出会う。交友は柳原が亡くなるまで続いた。以後、横浜マリタイムミュージアム(現・横浜みなと博物館)でキャリアを積み、2015年、館長に就任。2019年に退職し、現在は 海事史などを研究している。
ご協力いただいた方々
●岡部昌幸(おかべ・まさゆき) 1957年、横浜生まれ。少年期より地元横浜の美術と港・船の文化、歴史に関心を持つ。1984年、横浜市美術館の準備室に学芸員として勤務し、地域文化のサロンを通じて柳原良平と交遊。1992年、帝京大学文学部史学科専任講師(美術史)に就任。現・帝京大学文学部名誉教授、群馬県立近代美術館特別館長。
● 志澤政勝(しざわ・まさかつ) 1978年、 横浜海洋科学博物館の学芸員となり、同館の理事を務
めていた柳原良平と出会う。交友は柳原が亡くなるまで続いた。以後、横浜マリタイムミュージアム(現・横浜みなと博物館)でキャリアを積み、2015年、館長に就任。2019年に退職し、現在は 海事史などを研究している。
柳原良平原画・複製画
柳原良平原画・複製画
柳原良平アクリルフォト
柳原良平アクリルフォト
柳原良平主義 ~RyoheIZM~
アンクルトリス(アンクル船長)は2.5頭身。そして、ちびまる子ちゃんも2.5頭身だ。これに気づいたときは驚いた。気付いた自分を褒めてやりたい!
ちびまる子ちゃんの著者、さくらももこは、ちびまる子ちゃんのキャラクターを完成させるにあたって柳原良平、またはアンクルトリスを意識などしていなかっただろう。両者ともすでに故人となっているので知ることはできないが。
山口瞳といえば、寿屋(現サントリーホールディングス)時代の柳原良平の同僚であり、「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」の名コピーを考えた人物として、本稿の読者ならすでにご存知のことと思う。
レイを首にかけたアンクルトリスとハワイ各島のイラストによる地図、そこにこのコピーが配された新聞の広告やテレビCMは大きな反響を呼び、この年(1961年)の流行語となるほど広まった。
アーティストはみな独自の個性を持っているが、その個性を確立するには、それぞれきっかけがあるようだ。たとえばゴッホの独特のタッチや印象的な黄色の使い方は、彼がパリからアルルに引っ越して「ひまわり」を描いたことがきっかけだと言われており、有名な作品はその時期以降に描かれたものが多い。
アルル以前のパリでは、モネやルノワールなどの印象派の画家たちをはじめ、スーラの点描や日本の浮世絵などに影響を受け、さまざまな技法を用いた作品を残したが、ひまわり以降の作品ほど評価は高くない。
柳原良平主義 ~RyoheIZM~
アンクルトリス(アンクル船長)は2.5頭身。そして、ちびまる子ちゃんも2.5頭身だ。これに気づいたときは驚いた。気付いた自分を褒めてやりたい!
ちびまる子ちゃんの著者、さくらももこは、ちびまる子ちゃんのキャラクターを完成させるにあたって柳原良平、またはアンクルトリスを意識などしていなかっただろう。両者ともすでに故人となっているので知ることはできないが。
山口瞳といえば、寿屋(現サントリーホールディングス)時代の柳原良平の同僚であり、「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」の名コピーを考えた人物として、本稿の読者ならすでにご存知のことと思う。
レイを首にかけたアンクルトリスとハワイ各島のイラストによる地図、そこにこのコピーが配された新聞の広告やテレビCMは大きな反響を呼び、この年(1961年)の流行語となるほど広まった。
アーティストはみな独自の個性を持っているが、その個性を確立するには、それぞれきっかけがあるようだ。たとえばゴッホの独特のタッチや印象的な黄色の使い方は、彼がパリからアルルに引っ越して「ひまわり」を描いたことがきっかけだと言われており、有名な作品はその時期以降に描かれたものが多い。
アルル以前のパリでは、モネやルノワールなどの印象派の画家たちをはじめ、スーラの点描や日本の浮世絵などに影響を受け、さまざまな技法を用いた作品を残したが、ひまわり以降の作品ほど評価は高くない。