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アンクル編集子
Oct 26 2023

柳原良平主義 ~RyoheIZM~16

柳原良平主義 ~RyoheIZM~16

アンクル編集子

Oct 26, 2023

デフォルメ、センスはどこから?

デフォルメ、センスはどこから?

たどってきた道

たどってきた道

柳原良平による作品の、最も顕著な特徴はデフォルメだ。デフォルメについては以前、縦横や遠近の”圧縮”が技法として使われていることや、20世紀に活躍した欧米のデザイナーの影響などについて書いた。


しかしそれだけでは、どうにも物足りない。そこで柳原のたどった道をもう一度だけ振り返ってみる。

柳原良平による作品の、最も顕著な特徴はデフォルメだ。デフォルメについては以前、縦横や遠近の”圧縮”が技法として使われていることや、20世紀に活躍した欧米のデザイナーの影響などについて書いた。

しかしそれだけでは、どうにも物足りない。そこで柳原のたどった道をもう一度だけ振り返ってみる。

少年時代は写実派?

少年のころから船の絵はがきを集めるほど無類の船好きだった柳原は、小学校時代に経験した四国への船旅での景観を描き、担任から七重丸をもらうほどの絵心があった。二重丸の経験はあるが、七重丸など普通あり得ない。担任教諭の激賞ぶりがわかる。他の生徒と比較して圧倒的に優れていたに違いない。


柳原の著書には「甲板から船室を見た構図に遠近法を使って描いた」とある。ということは発想的に、このとき描いた絵には、デフォルメという発想はなく、写実的な絵だったのだろう(小学生としては驚くべき技術だが)。


そして高校になり、友達と手製による船の同人誌を作り、船会社に出入りして船の構造知識まで手に入れ、設計図を元に模型まで作ってしまう……と、ここまでの経緯にもデフォルメという発想は見受けられない。

美大で受けた教え

そして柳原は京都市立美術大学に進学する。専攻したのは油絵や日本画ではなく商業デザイン科。そう、これが後の柳原に大きな影響を与えるきっかけになる。


高校時代に美術部に属し、柳原の才能を評価した顧問教諭から美大への進学を勧められた、喜びながらも画家として食べていく自信はなく結局、食べていけるよう、商業デザイン科を選んだと柳原は告白している。

第一のキーパーソン、上野リチ

そんな柳原は美大時代を振り返って「授業は面白くなかったが実習は面白かった」とも書き残している。


美大で教えを受けたウィーン工房出身の上野リチからは、ちぎり絵の実習がのちの柳原お得意の切り絵に影響を与えたらしいが、それ以上に彼女の大胆な配色や、オリジナリティを追求する姿勢を叩き込まれたのだろう。


ちぎり絵は、切り絵と同様に色を混ぜることができない。油絵や水彩は絵の具を混ぜて、あらゆる中間色を作りながら描いていける。だから陰影や不明瞭な境界線などを描くことにより、写実的な作品を産むことができるのだが、ちぎり絵や切り絵は違う。混ぜることが可能なリトグラフでも柳原は色を重ねたり混ぜたりしなかった。

第二のキーパーソン、稲垣稔次郎

上野リチだけでなく、稲垣稔次郎という染色家にも教えを受けた。「稲垣稔次郎先生は、とにかく何でも百枚スケッチさせた」とある。虫や植物などを拾っては、同じものを百枚スケッチするよう学生に命じたという。


柳原の迷いのない筆運びや描くスピードは、この実習で培われたのだろう。そしてこの際に柳原は「百枚も描くと自分なりの型ができる」と語っている。つまり、この実習を経て柳原は、初めて”自分の型”を自覚した。


大胆さとオリジナリティを上野リチから学び、稲垣稔次郎の導きにより自分固有の型を見つけたのだ。さらに決定的だったのが、映画との出会いだ。

目から鱗の、タイトル・デザイン

1893年にエジソンがキネトスコープを発明し、映画の原型ができてから翌20世紀、映画は最もメジャーな娯楽産業に発展する。戦後の日本では、欧米の多くの映画が次々と公開。ヒッチコックの『北北西に進路をとれ』(1959年)や『サイコ』(1960年)、キューブリックの『スパルタカス』(1960年)などなど。


そして『80日間世界一周』(1956年)でついに、ソール・バスという、この映画の”タイトル・デザイン”を手がけたデザイナーに出会い、衝撃を受ける。ちなみに前に挙げた『北北西に〜』や『サイコ』、『スパルタカス』はすべて、タイトル・デザインをソール・バスが手がけている。


美大の講義は柳原にとって面白くなかったそうだが、商業デザイン科である以上、デザインにおける基礎知識や感性は備わっていたものと思われる(講義は最少限の単位以外は全部サボったらしいのだが:笑)。

タイトル・デザインとは?

そんな柳原の感性を鷲掴みにし、大きく揺さぶったのが、映画の冒頭に現れるタイトル・デザインだった。映画の内容に見事に呼応したイラストチックなタイトル文字(ロゴ)や、それにピッタリ合ったスタッフロールのフォント。それらが、これまた映画にピッタリのアニメーションを駆使して流れていく。


たとえばヒッチコックの『北北西に進路をとれ』は、縦と斜めに交差した格子が緑のバックに現れ、そのグリッドに沿って格子の斜めの角度に合わせたイタリック・フォントの文字が、次々に流れて表示される。そのうち徐々に背景の色が消え背景がぼんやり見え始める。


現れたのは斜めの線に沿って行き交う数々の車。最終的にその格子は、ビル屋上の金網の目とぴったり重なり、映画の冒頭シーンに引き継がれる、といった具合。


ついでに言えば、この映画の原題『NORTH BY NORTHWEST』のタイトルロゴは、最初の”N”の右上部が少し長く伸び、先端が矢印になっており、最後の”T”の左側は少し長く、先端がこれも矢印になっている。「なるほど、北北西を指しているのか」と気づいた瞬間、そのカッコよさにシビレてしまった。


映画それ自体を楽しむ人々にとっては気づかない、あるいはどうでもいいかもしれない。だが、こんなところで柳原はソール・バスを”発見”した。衝撃を受けたのは、これから始まる本編を凝縮するかの如く、世界一周しつつスタッフロールを冒頭表示した『80日間世界一周』。イラストによるアニメーションを用いた作品だった。


映画のタイトル・デザインには、作品のテーマや意味、印象といった抽象的な事象を、目に見える、つまり造形的な表現に変換するセンスを必要とする。

抽象イメージを具現化

よく「あ、このマークって●●らしいよね」などと感じる商品がある。ブランドとロゴマークが、その会社あるいは商品にぴったりなとき、そう感じる。CI(Corporate Identity)などはその典型的な対象だが、ソール・バスがその名人であることも、コーセー化粧品や京王百貨店の例を見れば納得だ。つまり、これが究極のデフォルメと言えるのではないか。


デザイナーというのは、雰囲気とか温度感を具現化するという意味で、難しいセンス(技術?)を要する職業だと常々感じる。これしかないとか、これ以上はムリとかいう何かを作り上げた人が一流なのだと思う。

柳原は、そうしたプロセスを経て、自然とものごとをシンプル化する術、さらにはデフォルメする術を身につけていったのだろう。

柳原の作ったマーク

柳原は、商船三井のコンテナに描くマークのデザインを依頼され、右肩(?)で荷物を担ぐワニを描いた。コンテナは船とトラックで運ばれるから水陸両棲生物であるワニになったらしい。その結果できたマークを下に載せておく。


商船三井のコーポレート・サイトには、柳原の作品が多数掲示された『柳原良平名誉船長ミュージアム』が常設されており、中に「ライブラリー」というコーナーがある。(参考:https://www.mol.co.jp/yanagihara/library.html)


そこに格納された「世界をまわれアリゲータ」というページでは、ワニのマークになった理由やプロセスを、柳原自身が解説している。柳原の思考が垣間見えて興味深かった。

水陸両棲生物ならペンギンでもカバでもよかったかもしれないが、ペンギンは力強さに欠けるし、カバは小回りが効かなそう。アグレッシブさまで考慮すると、やっぱりワニ以上に似合う動物はいないなあと、改めてこのマークが傑作だったと痛感する。残念ながらこのマーク、今は使われなくなっているのだが。
(以下、次号)

商船三井のコンテナに描かれたアリゲータのマーク

少年時代は写実派?

少年のころから船の絵はがきを集めるほど無類の船好きだった柳原は、小学校時代に経験した四国への船旅での景観を描き、担任から七重丸をもらうほどの絵心があった。二重丸の経験はあるが、七重丸など普通あり得ない。担任教諭の激賞ぶりがわかる。他の生徒と比較して圧倒的に優れていたに違いない。


柳原の著書には「甲板から船室を見た構図に遠近法を使って描いた」とある。ということは発想的に、このとき描いた絵には、デフォルメという発想はなく、写実的な絵だったのだろう(小学生としては驚くべき技術だが)。


そして高校になり、友達と手製による船の同人誌を作り、船会社に出入りして船の構造知識まで手に入れ、設計図を元に模型まで作ってしまう……と、ここまでの経緯にもデフォルメという発想は見受けられない。

美大で受けた教え

そして柳原は京都市立美術大学に進学する。専攻したのは油絵や日本画ではなく商業デザイン科。そう、これが後の柳原に大きな影響を与えるきっかけになる。


高校時代に美術部に属し、柳原の才能を評価した顧問教諭から美大への進学を勧められた、喜びながらも画家として食べていく自信はなく結局、食べていけるよう、商業デザイン科を選んだと柳原は告白している。

第一のキーパーソン、上野リチ

そんな柳原は美大時代を振り返って「授業は面白くなかったが実習は面白かった」とも書き残している。


美大で教えを受けたウィーン工房出身の上野リチからは、ちぎり絵の実習がのちの柳原お得意の切り絵に影響を与えたらしいが、それ以上に彼女の大胆な配色や、オリジナリティを追求する姿勢を叩き込まれたのだろう。


ちぎり絵は、切り絵と同様に色を混ぜることができない。油絵や水彩は絵の具を混ぜて、あらゆる中間色を作りながら描いていける。だから陰影や不明瞭な境界線などを描くことにより、写実的な作品を産むことができるのだが、ちぎり絵や切り絵は違う。混ぜることが可能なリトグラフでも柳原は色を重ねたり混ぜたりしなかった。

第二のキーパーソン、稲垣稔次郎

上野リチだけでなく、稲垣稔次郎という染色家にも教えを受けた。「稲垣稔次郎先生は、とにかく何でも百枚スケッチさせた」とある。虫や植物などを拾っては、同じものを百枚スケッチするよう学生に命じたという。


柳原の迷いのない筆運びや描くスピードは、この実習で培われたのだろう。そしてこの際に柳原は「百枚も描くと自分なりの型ができる」と語っている。つまり、この実習を経て柳原は、初めて”自分の型”を自覚した。


大胆さとオリジナリティを上野リチから学び、稲垣稔次郎の導きにより自分固有の型を見つけたのだ。さらに決定的だったのが、映画との出会いだ。

目から鱗の、タイトル・デザイン

1893年にエジソンがキネトスコープを発明し、映画の原型ができてから翌20世紀、映画は最もメジャーな娯楽産業に発展する。戦後の日本では、欧米の多くの映画が次々と公開。ヒッチコックの『北北西に進路をとれ』(1959年)や『サイコ』(1960年)、キューブリックの『スパルタカス』(1960年)などなど。


そして『80日間世界一周』(1956年)でついに、ソール・バスという、この映画の”タイトル・デザイン”を手がけたデザイナーに出会い、衝撃を受ける。ちなみに前に挙げた『北北西に〜』や『サイコ』、『スパルタカス』はすべて、タイトル・デザインをソール・バスが手がけている。


美大の講義は柳原にとって面白くなかったそうだが、商業デザイン科である以上、デザインにおける基礎知識や感性は備わっていたものと思われる(講義は最少限の単位以外は全部サボったらしいのだが:笑)。

タイトル・デザインとは?

そんな柳原の感性を鷲掴みにし、大きく揺さぶったのが、映画の冒頭に現れるタイトル・デザインだった。映画の内容に見事に呼応したイラストチックなタイトル文字(ロゴ)や、それにピッタリ合ったスタッフロールのフォント。それらが、これまた映画にピッタリのアニメーションを駆使して流れていく。


たとえばヒッチコックの『北北西に進路をとれ』は、縦と斜めに交差した格子が緑のバックに現れ、そのグリッドに沿って格子の斜めの角度に合わせたイタリック・フォントの文字が、次々に流れて表示される。そのうち徐々に背景の色が消え背景がぼんやり見え始める。


現れたのは斜めの線に沿って行き交う数々の車。最終的にその格子は、ビル屋上の金網の目とぴったり重なり、映画の冒頭シーンに引き継がれる、といった具合。


ついでに言えば、この映画の原題『NORTH BY NORTHWEST』のタイトルロゴは、最初の”N”の右上部が少し長く伸び、先端が矢印になっており、最後の”T”の左側は少し長く、先端がこれも矢印になっている。「なるほど、北北西を指しているのか」と気づいた瞬間、そのカッコよさにシビレてしまった。


映画それ自体を楽しむ人々にとっては気づかない、あるいはどうでもいいかもしれない。だが、こんなところで柳原はソール・バスを”発見”した。衝撃を受けたのは、これから始まる本編を凝縮するかの如く、世界一周しつつスタッフロールを冒頭表示した『80日間世界一周』。イラストによるアニメーションを用いた作品だった。


映画のタイトル・デザインには、作品のテーマや意味、印象といった抽象的な事象を、目に見える、つまり造形的な表現に変換するセンスを必要とする。

抽象イメージを具現化

よく「あ、このマークって●●らしいよね」などと感じる商品がある。ブランドとロゴマークが、その会社あるいは商品にぴったりなとき、そう感じる。CI(Corporate Identity)などはその典型的な対象だが、ソール・バスがその名人であることも、コーセー化粧品や京王百貨店の例を見れば納得だ。つまり、これが究極のデフォルメと言えるのではないか。


デザイナーというのは、雰囲気とか温度感を具現化するという意味で、難しいセンス(技術?)を要する職業だと常々感じる。これしかないとか、これ以上はムリとかいう何かを作り上げた人が一流なのだと思う。


柳原は、そうしたプロセスを経て、自然とものごとをシンプル化する術、さらにはデフォルメする術を身につけていったのだろう。

柳原の作ったマーク

柳原は、商船三井のコンテナに描くマークのデザインを依頼され、右肩(?)で荷物を担ぐワニを描いた。コンテナは船とトラックで運ばれるから水陸両棲生物であるワニになったらしい。その結果できたマークを下に載せておく。


商船三井のコーポレート・サイトには、柳原の作品が多数掲示された『柳原良平名誉船長ミュージアム』が常設されており、中に「ライブラリー」というコーナーがある。(参考:https://www.mol.co.jp/yanagihara/library.html)

そこに格納された「世界をまわれアリゲータ」というページでは、ワニのマークになった理由やプロセスを、柳原自身が解説している。柳原の思考が垣間見えて興味深かった。


水陸両棲生物ならペンギンでもカバでもよかったかもしれないが、ペンギンは力強さに欠けるし、カバは小回りが効かなそう。アグレッシブさまで考慮すると、やっぱりワニ以上に似合う動物はいないなあと、改めてこのマークが傑作だったと痛感する。残念ながらこのマーク、今は使われなくなっているのだが。
(以下、次号)

商船三井のコンテナに描かれたアリゲータのマーク

アンクル編集子

ロイヤリティバンクの中の人。出版社勤務ののち独立し、雑誌やWEBなどに記事を執筆。柳原良平作品の素晴らしさに魅せられ、本コラムの連載を開始。

※編注
「船キチ」という表現は「尋常ではない船マニア」といったニュアンスを表しています。柳原良平が自著の中で、主に自身に対して頻繁に使用している表現ですが、そこに差別や侮蔑の意図はまったく感じられません。従って本コラムでは、他の言葉に置き換えず、あえて「船キチ」という単語をそのまま使用しています。   

柳原良平(やなぎはら・りょうへい)

1931年、東京生まれ。1954年、寿屋(現・サントリーホールディングス)に入社。話題を呼ぶ広告を次々に制作し電通賞や毎日産業デザイン賞など多くの賞を受賞して退職・独立。船と港をこよなく愛し、横浜に移住。画家以外に、ぐらふぃくデザイナー、装丁家、絵本作家、アニメーター、文筆家など多彩な顔を持つ。2015年8月17日、84歳で逝去。

アンクル編集子

ロイヤリティバンクの中の人。出版社勤務ののち独立し、雑誌やWEBなどに記事を執筆。柳原良平作品の素晴らしさに魅せられ、本コラムの連載を開始。

※編注
「船キチ」という表現は「尋常ではない船マニア」といったニュアンスを表しています。柳原良平が自著の中で、主に自身に対して頻繁に使用している表現ですが、そこに差別や侮蔑の意図はまったく感じられません。従って本コラムでは、他の言葉に置き換えず、あえて「船キチ」という単語をそのまま使用しています。


柳原良平主義 ~RyoheIZM~

アンクルトリス(アンクル船長)は2.5頭身。そして、ちびまる子ちゃんも2.5頭身だ。これに気づいたときは驚いた。気付いた自分を褒めてやりたい!

ちびまる子ちゃんの著者、さくらももこは、ちびまる子ちゃんのキャラクターを完成させるにあたって柳原良平、またはアンクルトリスを意識などしていなかっただろう。両者ともすでに故人となっているので知ることはできないが。

山口瞳といえば、寿屋(現サントリーホールディングス)時代の柳原良平の同僚であり、「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」の名コピーを考えた人物として、本稿の読者ならすでにご存知のことと思う。

レイを首にかけたアンクルトリスとハワイ各島のイラストによる地図、そこにこのコピーが配された新聞の広告やテレビCMは大きな反響を呼び、この年(1961年)の流行語となるほど広まった。

『冨嶽三十六景』などを代表作とする世界的にも著名な画家・葛飾北斎(1760年〜1849年)。少年時代から版画彫りで生計を立て、19歳で浮世絵界の一大勢力のひとつの門戸を叩き、ほどなくデビューを果たして以来、生涯で34,000点にも及ぶ作品を描いた浮世絵師だ。

アーティストはみな独自の個性を持っているが、その個性を確立するには、それぞれきっかけがあるようだ。たとえばゴッホの独特のタッチや印象的な黄色の使い方は、彼がパリからアルルに引っ越して「ひまわり」を描いたことがきっかけだと言われており、有名な作品はその時期以降に描かれたものが多い。

アルル以前のパリでは、モネやルノワールなどの印象派の画家たちをはじめ、スーラの点描や日本の浮世絵などに影響を受け、さまざまな技法を用いた作品を残したが、ひまわり以降の作品ほど評価は高くない。

海洋画家と呼ばれる、船や海、港を専門に描く画家がいる。高橋健一、飯塚羚児、亀山和明や野上隼夫、世界に目を向けるとイヴァン・アイヴァゾフスキーやウィリアム・ターナーなどなど、その数は多い。 柳原良平も当然そのひとりに数えられていると思ったのだが、彼のことを純粋な海洋画家と呼ぶ記述には出会ったことがない(他の海洋画家との比較はあったが)。
アーティストはみな、作品のオリジナリティにこだわる。だから、自分の作品のどこかの段階で、他人の手が入ることを嫌うタイプも少なくない。妥協を許さないアーティストの姿勢や、納得がいくまで何度もやり直したりする話に、感動を覚えることも多々ある。
破天荒な人生を送り、作品以上に人生(生き様)が面白がられる、そんなアーティストはたくさんいるが、柳原良平はその対極に位置するアーティストのように見える。
前回は柳原良平の人間性について書いたが、今回も他のエピソードを紹介しつつ、人物としての柳原に焦点を当てる。会社に甘えない 柳原が寿屋の正社員を辞め嘱託になったのは、漫画や装丁など他社の仕事をし始めたことがきっかけだったと前回書いた。周囲に気を使ったわけだが、まだ20代の身(28歳)で思い切った決断だ。
人間の品格やスタイルについて論じる書籍がさまざまなところから出ている。一冊も読んだことがないので、もしかしたらその解釈は、世の常識とはズレているかもしれない。しかしそれでも柳原良平は、品格のあるオシャレな大人だと、つくづく思う。今回は芸術家としてではなく、人としての柳原について。
柳原良平は多作だ。そして彼が絵を描く姿を見た人はみな、描く速さに驚く。速いから多くの作品を生み出せるのだ。今回は、柳原の描くスピードについて書く。 無言で描きまくる 柳原は現場主義。船でも景色でも、まずは現物をしっかり観察する。たとえば横浜港に豪華客船が入港すると、柳原はわざわざ小舟をチャーターし、さまざまな角度からその客船を眺めつつ、写真を撮り、そして筆を走らせる。そのフィールドワークにはカメラも必需品だった。
柳原良平は、アニメーションについても先進的な役割を果たしている。そこに登場するキャラクターとして生まれたのが1958年に登場したアンクルトリスだったということも、コラム(第2回)に書いた。今回は、アニメーション作家としての柳原にも触れておこう。 柳原は、1957年に日本公開された映画『八十日間世界一周』を観て、革命的デザイナーと称されたソール・バスが手がけたオープニング・シークエンスを発見し、衝撃を受ける。
リトグラフにおいては作家と刷り師との信頼関係が、作品の出来・不出来に大きく影響するという話を以前に書いた。工房のある広島県沼隈郡を訪れ、版に絵を描いて打ち合わせを済ませた柳原は、あとの工程を刷り師である佐道二郎氏に任せて横浜の自宅に戻る。
柳原良平による作品の、最も顕著な特徴はデフォルメだ。デフォルメについては以前、縦横や遠近の”圧縮”が技法として使われていることや、20世紀に活躍した欧米のデザイナーの影響などについて書いた。 しかしそれだけでは、どうにも物足りない。そこで柳原のたどった道をもう一度だけ振り返ってみる。
2023年の上半期に放送されたNHKの連続テレビ小説『らんまん』では、主人公の槙野万太郎(神木隆之介)が石版印刷の技術を駆使して植物図鑑を完成させた。この石版印刷は通称リトグラフと呼ばれ、微細な描写を再現できる画期的な印刷技術として、日本では明治以降にまたたく間に
柳原良平の多能ぶりについては過去にも述べたが、今回はその多能ついて、もう少し詳しく触れておきたい。 画家でもありデザイナーでもあったことは書いたが、たとえば画家としても柳原は、驚くほどさまざまな手法を駆使した作品を残している。それは
たとえばフィンランドの老舗ブランド、マリメッコの定番テキスタイルは、誰が見てもすぐにマリメッコとわかる。それはもちろんポピーの花をモチーフにした、例のウニッコ(Unikko)と呼ばれるデザイン・パターンのせいでもあるが、目が覚めるような鮮やかな色彩感覚にも原因があるのではないかと思う。
柳原良平の絵に現れる個性の背景には、デザイナーとして培ったデザイン感覚があると前回のコラムで書いた。だがアート界では、画家とデザイナーとの間には大きな隔たりがあったらしい。 たとえば前回登場した、フランスの革命的デザイナーとして著名なカッサンドルの場合、デザインの仕事は、絵画で身を立てるまでの生活の手段としか考えていなかったらしい。帝京大学名誉教授・岡部氏が
柳原良平の絵は、当たり前だが他とは異なったオリジナリティがある。どこが違うかはこれまでにも何度か書いてきたが、なぜ違うか、その理由についても知りたかった。 まず思い当たるのは、柳原は画家であるだけでなく、イラストレーターであり、漫画家であり、またデザイナー、装丁家でもあったこと。 元・横浜みなと博物館館長の志澤氏によれば、
『帆走客船』とだけ題された、ペンによって描かれた原画を見た。モノクロでシンプルな線画だが、マストや飛び出した船首、帆はもちろん、帆綱(ほづな)をはじめとする多くのロープに至るまで、きっちり描き込まれている。このあたりの細かさは、
先日また柳原作品の、原画を観る機会に恵まれた。『ナポリ港の「ミケランジェロ号」』と、珍しくタイトルが絵の中に書いてある、切り絵による作品だ。 晴れわたったナポリの空の下、穏やかな港内に浮かぶ名船ミケランジェロ号の姿がなんとも優雅で、ゆったりした時間の流れが感じられ、
柳原良平の描く船は、堂々たる威風を感じさせるというより、親しみやすく可愛らしいものが多い。この親しみやすさはどこから来るのか? またその親しみやすさを、どうやって表現していたのか? 元・横浜みなと博物館館長の志澤政勝氏は、それをひと言で表現してくれた。 「変形されてますよね? つまり圧縮です」
柳原良平の「船キチ」が、いつどのように育まれたのか知りたかった。ただ彼の少年時代を知っている人は、今となっては見つからなかった。その代わり『柳原良平のわが人生』の記述から、ヒントとなった箇所を紹介する。 戦後(1945年)占領軍の統制下にあった日本は、船舶を建造することができなかったが、1946年には小型船舶の建造許可が降りた。そして翌1947年、関西在住の中学生、柳原良平(15歳)は、
柳原良平は横浜を愛した。山手の丘の中腹に住み書斎兼作業部屋から港を見ながら多くの作品を生み出した(数年後、他の建築物のせいで港は見えなくなってしまったが)。そんな彼の作品が大好きな、横浜に社屋を構える会社の代表がいた。彼は、既存の自社商品をもう一段階盛り上げる起爆剤は、柳原良平が描く絵のパワーだとひらめいた。
さて、ついに船の話だ。どこから書こうか迷うほど柳原の船愛っぷり(=知識)はどこまでも広く深い。それは『船旅絵日記』(徳間文庫)などを一読すれば、その濃度に誰もが思い知る。 排水量(総トン数)や速度、乗客数、船籍、建造会社、オーナー会社(の遷移も)などのスペックはもちろん、各キャビンの位置がわかる図に加えて一等から三等までの船室料金に至るまで詳細に記述されている。もちろん調べたりメモしたりすればわかることだという意見もあろう。だが当時は、気楽に検索して調べることなど不可能な時代。調査方法も問い合わせ先も、自力で見つけ出すしかない。
線画は、柳原良平の作品における原点だ。彼にとってスケッチは日常であり、スケッチは線画から始まる。そして彼は、線画による味わい深い作品を数多く残している。 『三人のおまわりさん』(学研)の絵は、そんな挿絵を見ることのできる作品のひとつ。主人公である三人のおまわりさんは、三人とも例によって2頭身半で、ヒゲの向き以外はほぼ同じ顔なのだが、
前回は、1958年に誕生以来、半世紀を軽く超えて今なお大活躍する不滅のキャラクター「アンクルトリス」が誕生するまでについて書いた。こんな長く活躍するとは柳原良平ご本人さえ想像していなかったのでは? これは作品の内に、作者本人すら意識しない普遍性が備わっていたことの証と言える。つまり柳原良平の作品には「魅力という名の普遍性」が備わっている。
道は、自分で切り開く 船や港は、柳原良平が一生を通じて向き合ってきたテーマであり、その絵を前にすると誰もが、オリジナリティあふれる、柳原ならではの作風に魅了される。その魅力については今後、手を替え品を替え何度も書くことになろうが、その前にあえて、彼の作品のもうひとつの特徴である、人物画の面白さにスポットを当てておきたい。
柳原良平による船の絵。それはときに埠頭に停泊して浮かぶ豪華客船であったり、ときにクレーンで荷役作業中の力強いコンテナ船であったりする。作品によっては客船の甲板から手を振る旅客や、貨物船のブリッジで針路を見つめる船長が描かれていたり。 船自体の絵は写実的な絵とはかけ離れた作風にもかかわらず、

柳原良平主義 ~RyoheIZM~

アンクルトリス(アンクル船長)は2.5頭身。そして、ちびまる子ちゃんも2.5頭身だ。これに気づいたときは驚いた。気付いた自分を褒めてやりたい!

ちびまる子ちゃんの著者、さくらももこは、ちびまる子ちゃんのキャラクターを完成させるにあたって柳原良平、またはアンクルトリスを意識などしていなかっただろう。両者ともすでに故人となっているので知ることはできないが。

山口瞳といえば、寿屋(現サントリーホールディングス)時代の柳原良平の同僚であり、「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」の名コピーを考えた人物として、本稿の読者ならすでにご存知のことと思う。

レイを首にかけたアンクルトリスとハワイ各島のイラストによる地図、そこにこのコピーが配された新聞の広告やテレビCMは大きな反響を呼び、この年(1961年)の流行語となるほど広まった。

『冨嶽三十六景』などを代表作とする世界的にも著名な画家・葛飾北斎(1760年〜1849年)。少年時代から版画彫りで生計を立て、19歳で浮世絵界の一大勢力のひとつの門戸を叩き、ほどなくデビューを果たして以来、生涯で34,000点にも及ぶ作品を描いた浮世絵師だ。

アーティストはみな独自の個性を持っているが、その個性を確立するには、それぞれきっかけがあるようだ。たとえばゴッホの独特のタッチや印象的な黄色の使い方は、彼がパリからアルルに引っ越して「ひまわり」を描いたことがきっかけだと言われており、有名な作品はその時期以降に描かれたものが多い。

アルル以前のパリでは、モネやルノワールなどの印象派の画家たちをはじめ、スーラの点描や日本の浮世絵などに影響を受け、さまざまな技法を用いた作品を残したが、ひまわり以降の作品ほど評価は高くない。

海洋画家と呼ばれる、船や海、港を専門に描く画家がいる。高橋健一、飯塚羚児、亀山和明や野上隼夫、世界に目を向けるとイヴァン・アイヴァゾフスキーやウィリアム・ターナーなどなど、その数は多い。 柳原良平も当然そのひとりに数えられていると思ったのだが、彼のことを純粋な海洋画家と呼ぶ記述には出会ったことがない(他の海洋画家との比較はあったが)。
アーティストはみな、作品のオリジナリティにこだわる。だから、自分の作品のどこかの段階で、他人の手が入ることを嫌うタイプも少なくない。妥協を許さないアーティストの姿勢や、納得がいくまで何度もやり直したりする話に、感動を覚えることも多々ある。
破天荒な人生を送り、作品以上に人生(生き様)が面白がられる、そんなアーティストはたくさんいるが、柳原良平はその対極に位置するアーティストのように見える。
前回は柳原良平の人間性について書いたが、今回も他のエピソードを紹介しつつ、人物としての柳原に焦点を当てる。会社に甘えない 柳原が寿屋の正社員を辞め嘱託になったのは、漫画や装丁など他社の仕事をし始めたことがきっかけだったと前回書いた。周囲に気を使ったわけだが、まだ20代の身(28歳)で思い切った決断だ。
人間の品格やスタイルについて論じる書籍がさまざまなところから出ている。一冊も読んだことがないので、もしかしたらその解釈は、世の常識とはズレているかもしれない。しかしそれでも柳原良平は、品格のあるオシャレな大人だと、つくづく思う。今回は芸術家としてではなく、人としての柳原について。
柳原良平は多作だ。そして彼が絵を描く姿を見た人はみな、描く速さに驚く。速いから多くの作品を生み出せるのだ。今回は、柳原の描くスピードについて書く。 無言で描きまくる 柳原は現場主義。船でも景色でも、まずは現物をしっかり観察する。たとえば横浜港に豪華客船が入港すると、柳原はわざわざ小舟をチャーターし、さまざまな角度からその客船を眺めつつ、写真を撮り、そして筆を走らせる。そのフィールドワークにはカメラも必需品だった。
柳原良平は、アニメーションについても先進的な役割を果たしている。そこに登場するキャラクターとして生まれたのが1958年に登場したアンクルトリスだったということも、コラム(第2回)に書いた。今回は、アニメーション作家としての柳原にも触れておこう。 柳原は、1957年に日本公開された映画『八十日間世界一周』を観て、革命的デザイナーと称されたソール・バスが手がけたオープニング・シークエンスを発見し、衝撃を受ける。
リトグラフにおいては作家と刷り師との信頼関係が、作品の出来・不出来に大きく影響するという話を以前に書いた。工房のある広島県沼隈郡を訪れ、版に絵を描いて打ち合わせを済ませた柳原は、あとの工程を刷り師である佐道二郎氏に任せて横浜の自宅に戻る。
柳原良平による作品の、最も顕著な特徴はデフォルメだ。デフォルメについては以前、縦横や遠近の”圧縮”が技法として使われていることや、20世紀に活躍した欧米のデザイナーの影響などについて書いた。 しかしそれだけでは、どうにも物足りない。そこで柳原のたどった道をもう一度だけ振り返ってみる。
2023年の上半期に放送されたNHKの連続テレビ小説『らんまん』では、主人公の槙野万太郎(神木隆之介)が石版印刷の技術を駆使して植物図鑑を完成させた。この石版印刷は通称リトグラフと呼ばれ、微細な描写を再現できる画期的な印刷技術として、日本では明治以降にまたたく間に
柳原良平の多能ぶりについては過去にも述べたが、今回はその多能ついて、もう少し詳しく触れておきたい。 画家でもありデザイナーでもあったことは書いたが、たとえば画家としても柳原は、驚くほどさまざまな手法を駆使した作品を残している。それは
たとえばフィンランドの老舗ブランド、マリメッコの定番テキスタイルは、誰が見てもすぐにマリメッコとわかる。それはもちろんポピーの花をモチーフにした、例のウニッコ(Unikko)と呼ばれるデザイン・パターンのせいでもあるが、目が覚めるような鮮やかな色彩感覚にも原因があるのではないかと思う。
柳原良平の絵に現れる個性の背景には、デザイナーとして培ったデザイン感覚があると前回のコラムで書いた。だがアート界では、画家とデザイナーとの間には大きな隔たりがあったらしい。 たとえば前回登場した、フランスの革命的デザイナーとして著名なカッサンドルの場合、デザインの仕事は、絵画で身を立てるまでの生活の手段としか考えていなかったらしい。帝京大学名誉教授・岡部氏が
柳原良平の絵は、当たり前だが他とは異なったオリジナリティがある。どこが違うかはこれまでにも何度か書いてきたが、なぜ違うか、その理由についても知りたかった。 まず思い当たるのは、柳原は画家であるだけでなく、イラストレーターであり、漫画家であり、またデザイナー、装丁家でもあったこと。 元・横浜みなと博物館館長の志澤氏によれば、
『帆走客船』とだけ題された、ペンによって描かれた原画を見た。モノクロでシンプルな線画だが、マストや飛び出した船首、帆はもちろん、帆綱(ほづな)をはじめとする多くのロープに至るまで、きっちり描き込まれている。このあたりの細かさは、
先日また柳原作品の、原画を観る機会に恵まれた。『ナポリ港の「ミケランジェロ号」』と、珍しくタイトルが絵の中に書いてある、切り絵による作品だ。 晴れわたったナポリの空の下、穏やかな港内に浮かぶ名船ミケランジェロ号の姿がなんとも優雅で、ゆったりした時間の流れが感じられ、
柳原良平の描く船は、堂々たる威風を感じさせるというより、親しみやすく可愛らしいものが多い。この親しみやすさはどこから来るのか? またその親しみやすさを、どうやって表現していたのか? 元・横浜みなと博物館館長の志澤政勝氏は、それをひと言で表現してくれた。 「変形されてますよね? つまり圧縮です」
柳原良平の「船キチ」が、いつどのように育まれたのか知りたかった。ただ彼の少年時代を知っている人は、今となっては見つからなかった。その代わり『柳原良平のわが人生』の記述から、ヒントとなった箇所を紹介する。 戦後(1945年)占領軍の統制下にあった日本は、船舶を建造することができなかったが、1946年には小型船舶の建造許可が降りた。そして翌1947年、関西在住の中学生、柳原良平(15歳)は、
柳原良平は横浜を愛した。山手の丘の中腹に住み書斎兼作業部屋から港を見ながら多くの作品を生み出した(数年後、他の建築物のせいで港は見えなくなってしまったが)。そんな彼の作品が大好きな、横浜に社屋を構える会社の代表がいた。彼は、既存の自社商品をもう一段階盛り上げる起爆剤は、柳原良平が描く絵のパワーだとひらめいた。
さて、ついに船の話だ。どこから書こうか迷うほど柳原の船愛っぷり(=知識)はどこまでも広く深い。それは『船旅絵日記』(徳間文庫)などを一読すれば、その濃度に誰もが思い知る。 排水量(総トン数)や速度、乗客数、船籍、建造会社、オーナー会社(の遷移も)などのスペックはもちろん、各キャビンの位置がわかる図に加えて一等から三等までの船室料金に至るまで詳細に記述されている。もちろん調べたりメモしたりすればわかることだという意見もあろう。だが当時は、気楽に検索して調べることなど不可能な時代。調査方法も問い合わせ先も、自力で見つけ出すしかない。
線画は、柳原良平の作品における原点だ。彼にとってスケッチは日常であり、スケッチは線画から始まる。そして彼は、線画による味わい深い作品を数多く残している。 『三人のおまわりさん』(学研)の絵は、そんな挿絵を見ることのできる作品のひとつ。主人公である三人のおまわりさんは、三人とも例によって2頭身半で、ヒゲの向き以外はほぼ同じ顔なのだが、
前回は、1958年に誕生以来、半世紀を軽く超えて今なお大活躍する不滅のキャラクター「アンクルトリス」が誕生するまでについて書いた。こんな長く活躍するとは柳原良平ご本人さえ想像していなかったのでは? これは作品の内に、作者本人すら意識しない普遍性が備わっていたことの証と言える。つまり柳原良平の作品には「魅力という名の普遍性」が備わっている。
道は、自分で切り開く 船や港は、柳原良平が一生を通じて向き合ってきたテーマであり、その絵を前にすると誰もが、オリジナリティあふれる、柳原ならではの作風に魅了される。その魅力については今後、手を替え品を替え何度も書くことになろうが、その前にあえて、彼の作品のもうひとつの特徴である、人物画の面白さにスポットを当てておきたい。
柳原良平による船の絵。それはときに埠頭に停泊して浮かぶ豪華客船であったり、ときにクレーンで荷役作業中の力強いコンテナ船であったりする。作品によっては客船の甲板から手を振る旅客や、貨物船のブリッジで針路を見つめる船長が描かれていたり。 船自体の絵は写実的な絵とはかけ離れた作風にもかかわらず、