柳原良平主義 ~RyoheIZM~16
柳原良平主義 ~RyoheIZM~16
Oct 26, 2023
デフォルメ、センスはどこから?
デフォルメ、センスはどこから?
たどってきた道
たどってきた道
柳原良平による作品の、最も顕著な特徴はデフォルメだ。デフォルメについては以前、縦横や遠近の”圧縮”が技法として使われていることや、20世紀に活躍した欧米のデザイナーの影響などについて書いた。
しかしそれだけでは、どうにも物足りない。そこで柳原のたどった道をもう一度だけ振り返ってみる。
柳原良平による作品の、最も顕著な特徴はデフォルメだ。デフォルメについては以前、縦横や遠近の”圧縮”が技法として使われていることや、20世紀に活躍した欧米のデザイナーの影響などについて書いた。
しかしそれだけでは、どうにも物足りない。そこで柳原のたどった道をもう一度だけ振り返ってみる。
少年時代は写実派?
少年のころから船の絵はがきを集めるほど無類の船好きだった柳原は、小学校時代に経験した四国への船旅での景観を描き、担任から七重丸をもらうほどの絵心があった。二重丸の経験はあるが、七重丸など普通あり得ない。担任教諭の激賞ぶりがわかる。他の生徒と比較して圧倒的に優れていたに違いない。
柳原の著書には「甲板から船室を見た構図に遠近法を使って描いた」とある。ということは発想的に、このとき描いた絵には、デフォルメという発想はなく、写実的な絵だったのだろう(小学生としては驚くべき技術だが)。
そして高校になり、友達と手製による船の同人誌を作り、船会社に出入りして船の構造知識まで手に入れ、設計図を元に模型まで作ってしまう……と、ここまでの経緯にもデフォルメという発想は見受けられない。
美大で受けた教え
そして柳原は京都市立美術大学に進学する。専攻したのは油絵や日本画ではなく商業デザイン科。そう、これが後の柳原に大きな影響を与えるきっかけになる。
高校時代に美術部に属し、柳原の才能を評価した顧問教諭から美大への進学を勧められた、喜びながらも画家として食べていく自信はなく結局、食べていけるよう、商業デザイン科を選んだと柳原は告白している。
第一のキーパーソン、上野リチ
そんな柳原は美大時代を振り返って「授業は面白くなかったが実習は面白かった」とも書き残している。
美大で教えを受けたウィーン工房出身の上野リチからは、ちぎり絵の実習がのちの柳原お得意の切り絵に影響を与えたらしいが、それ以上に彼女の大胆な配色や、オリジナリティを追求する姿勢を叩き込まれたのだろう。
ちぎり絵は、切り絵と同様に色を混ぜることができない。油絵や水彩は絵の具を混ぜて、あらゆる中間色を作りながら描いていける。だから陰影や不明瞭な境界線などを描くことにより、写実的な作品を産むことができるのだが、ちぎり絵や切り絵は違う。混ぜることが可能なリトグラフでも柳原は色を重ねたり混ぜたりしなかった。
第二のキーパーソン、稲垣稔次郎
上野リチだけでなく、稲垣稔次郎という染色家にも教えを受けた。「稲垣稔次郎先生は、とにかく何でも百枚スケッチさせた」とある。虫や植物などを拾っては、同じものを百枚スケッチするよう学生に命じたという。
柳原の迷いのない筆運びや描くスピードは、この実習で培われたのだろう。そしてこの際に柳原は「百枚も描くと自分なりの型ができる」と語っている。つまり、この実習を経て柳原は、初めて”自分の型”を自覚した。
大胆さとオリジナリティを上野リチから学び、稲垣稔次郎の導きにより自分固有の型を見つけたのだ。さらに決定的だったのが、映画との出会いだ。
目から鱗の、タイトル・デザイン
1893年にエジソンがキネトスコープを発明し、映画の原型ができてから翌20世紀、映画は最もメジャーな娯楽産業に発展する。戦後の日本では、欧米の多くの映画が次々と公開。ヒッチコックの『北北西に進路をとれ』(1959年)や『サイコ』(1960年)、キューブリックの『スパルタカス』(1960年)などなど。
そして『80日間世界一周』(1956年)でついに、ソール・バスという、この映画の”タイトル・デザイン”を手がけたデザイナーに出会い、衝撃を受ける。ちなみに前に挙げた『北北西に〜』や『サイコ』、『スパルタカス』はすべて、タイトル・デザインをソール・バスが手がけている。
美大の講義は柳原にとって面白くなかったそうだが、商業デザイン科である以上、デザインにおける基礎知識や感性は備わっていたものと思われる(講義は最少限の単位以外は全部サボったらしいのだが:笑)。
タイトル・デザインとは?
そんな柳原の感性を鷲掴みにし、大きく揺さぶったのが、映画の冒頭に現れるタイトル・デザインだった。映画の内容に見事に呼応したイラストチックなタイトル文字(ロゴ)や、それにピッタリ合ったスタッフロールのフォント。それらが、これまた映画にピッタリのアニメーションを駆使して流れていく。
たとえばヒッチコックの『北北西に進路をとれ』は、縦と斜めに交差した格子が緑のバックに現れ、そのグリッドに沿って格子の斜めの角度に合わせたイタリック・フォントの文字が、次々に流れて表示される。そのうち徐々に背景の色が消え背景がぼんやり見え始める。
現れたのは斜めの線に沿って行き交う数々の車。最終的にその格子は、ビル屋上の金網の目とぴったり重なり、映画の冒頭シーンに引き継がれる、といった具合。
ついでに言えば、この映画の原題『NORTH BY NORTHWEST』のタイトルロゴは、最初の”N”の右上部が少し長く伸び、先端が矢印になっており、最後の”T”の左側は少し長く、先端がこれも矢印になっている。「なるほど、北北西を指しているのか」と気づいた瞬間、そのカッコよさにシビレてしまった。
映画それ自体を楽しむ人々にとっては気づかない、あるいはどうでもいいかもしれない。だが、こんなところで柳原はソール・バスを”発見”した。衝撃を受けたのは、これから始まる本編を凝縮するかの如く、世界一周しつつスタッフロールを冒頭表示した『80日間世界一周』。イラストによるアニメーションを用いた作品だった。
映画のタイトル・デザインには、作品のテーマや意味、印象といった抽象的な事象を、目に見える、つまり造形的な表現に変換するセンスを必要とする。
抽象イメージを具現化
よく「あ、このマークって●●らしいよね」などと感じる商品がある。ブランドとロゴマークが、その会社あるいは商品にぴったりなとき、そう感じる。CI(Corporate Identity)などはその典型的な対象だが、ソール・バスがその名人であることも、コーセー化粧品や京王百貨店の例を見れば納得だ。つまり、これが究極のデフォルメと言えるのではないか。
デザイナーというのは、雰囲気とか温度感を具現化するという意味で、難しいセンス(技術?)を要する職業だと常々感じる。これしかないとか、これ以上はムリとかいう何かを作り上げた人が一流なのだと思う。
柳原は、そうしたプロセスを経て、自然とものごとをシンプル化する術、さらにはデフォルメする術を身につけていったのだろう。
柳原の作ったマーク
柳原は、商船三井のコンテナに描くマークのデザインを依頼され、右肩(?)で荷物を担ぐワニを描いた。コンテナは船とトラックで運ばれるから水陸両棲生物であるワニになったらしい。その結果できたマークを下に載せておく。
商船三井のコーポレート・サイトには、柳原の作品が多数掲示された『柳原良平名誉船長ミュージアム』が常設されており、中に「ライブラリー」というコーナーがある。(参考:https://www.mol.co.jp/yanagihara/library.html)
そこに格納された「世界をまわれアリゲータ」というページでは、ワニのマークになった理由やプロセスを、柳原自身が解説している。柳原の思考が垣間見えて興味深かった。
水陸両棲生物ならペンギンでもカバでもよかったかもしれないが、ペンギンは力強さに欠けるし、カバは小回りが効かなそう。アグレッシブさまで考慮すると、やっぱりワニ以上に似合う動物はいないなあと、改めてこのマークが傑作だったと痛感する。残念ながらこのマーク、今は使われなくなっているのだが。
(以下、次号)
少年時代は写実派?
少年のころから船の絵はがきを集めるほど無類の船好きだった柳原は、小学校時代に経験した四国への船旅での景観を描き、担任から七重丸をもらうほどの絵心があった。二重丸の経験はあるが、七重丸など普通あり得ない。担任教諭の激賞ぶりがわかる。他の生徒と比較して圧倒的に優れていたに違いない。
柳原の著書には「甲板から船室を見た構図に遠近法を使って描いた」とある。ということは発想的に、このとき描いた絵には、デフォルメという発想はなく、写実的な絵だったのだろう(小学生としては驚くべき技術だが)。
そして高校になり、友達と手製による船の同人誌を作り、船会社に出入りして船の構造知識まで手に入れ、設計図を元に模型まで作ってしまう……と、ここまでの経緯にもデフォルメという発想は見受けられない。
美大で受けた教え
そして柳原は京都市立美術大学に進学する。専攻したのは油絵や日本画ではなく商業デザイン科。そう、これが後の柳原に大きな影響を与えるきっかけになる。
高校時代に美術部に属し、柳原の才能を評価した顧問教諭から美大への進学を勧められた、喜びながらも画家として食べていく自信はなく結局、食べていけるよう、商業デザイン科を選んだと柳原は告白している。
第一のキーパーソン、上野リチ
そんな柳原は美大時代を振り返って「授業は面白くなかったが実習は面白かった」とも書き残している。
美大で教えを受けたウィーン工房出身の上野リチからは、ちぎり絵の実習がのちの柳原お得意の切り絵に影響を与えたらしいが、それ以上に彼女の大胆な配色や、オリジナリティを追求する姿勢を叩き込まれたのだろう。
ちぎり絵は、切り絵と同様に色を混ぜることができない。油絵や水彩は絵の具を混ぜて、あらゆる中間色を作りながら描いていける。だから陰影や不明瞭な境界線などを描くことにより、写実的な作品を産むことができるのだが、ちぎり絵や切り絵は違う。混ぜることが可能なリトグラフでも柳原は色を重ねたり混ぜたりしなかった。
第二のキーパーソン、稲垣稔次郎
上野リチだけでなく、稲垣稔次郎という染色家にも教えを受けた。「稲垣稔次郎先生は、とにかく何でも百枚スケッチさせた」とある。虫や植物などを拾っては、同じものを百枚スケッチするよう学生に命じたという。
柳原の迷いのない筆運びや描くスピードは、この実習で培われたのだろう。そしてこの際に柳原は「百枚も描くと自分なりの型ができる」と語っている。つまり、この実習を経て柳原は、初めて”自分の型”を自覚した。
大胆さとオリジナリティを上野リチから学び、稲垣稔次郎の導きにより自分固有の型を見つけたのだ。さらに決定的だったのが、映画との出会いだ。
目から鱗の、タイトル・デザイン
1893年にエジソンがキネトスコープを発明し、映画の原型ができてから翌20世紀、映画は最もメジャーな娯楽産業に発展する。戦後の日本では、欧米の多くの映画が次々と公開。ヒッチコックの『北北西に進路をとれ』(1959年)や『サイコ』(1960年)、キューブリックの『スパルタカス』(1960年)などなど。
そして『80日間世界一周』(1956年)でついに、ソール・バスという、この映画の”タイトル・デザイン”を手がけたデザイナーに出会い、衝撃を受ける。ちなみに前に挙げた『北北西に〜』や『サイコ』、『スパルタカス』はすべて、タイトル・デザインをソール・バスが手がけている。
美大の講義は柳原にとって面白くなかったそうだが、商業デザイン科である以上、デザインにおける基礎知識や感性は備わっていたものと思われる(講義は最少限の単位以外は全部サボったらしいのだが:笑)。
タイトル・デザインとは?
そんな柳原の感性を鷲掴みにし、大きく揺さぶったのが、映画の冒頭に現れるタイトル・デザインだった。映画の内容に見事に呼応したイラストチックなタイトル文字(ロゴ)や、それにピッタリ合ったスタッフロールのフォント。それらが、これまた映画にピッタリのアニメーションを駆使して流れていく。
たとえばヒッチコックの『北北西に進路をとれ』は、縦と斜めに交差した格子が緑のバックに現れ、そのグリッドに沿って格子の斜めの角度に合わせたイタリック・フォントの文字が、次々に流れて表示される。そのうち徐々に背景の色が消え背景がぼんやり見え始める。
現れたのは斜めの線に沿って行き交う数々の車。最終的にその格子は、ビル屋上の金網の目とぴったり重なり、映画の冒頭シーンに引き継がれる、といった具合。
ついでに言えば、この映画の原題『NORTH BY NORTHWEST』のタイトルロゴは、最初の”N”の右上部が少し長く伸び、先端が矢印になっており、最後の”T”の左側は少し長く、先端がこれも矢印になっている。「なるほど、北北西を指しているのか」と気づいた瞬間、そのカッコよさにシビレてしまった。
映画それ自体を楽しむ人々にとっては気づかない、あるいはどうでもいいかもしれない。だが、こんなところで柳原はソール・バスを”発見”した。衝撃を受けたのは、これから始まる本編を凝縮するかの如く、世界一周しつつスタッフロールを冒頭表示した『80日間世界一周』。イラストによるアニメーションを用いた作品だった。
映画のタイトル・デザインには、作品のテーマや意味、印象といった抽象的な事象を、目に見える、つまり造形的な表現に変換するセンスを必要とする。
抽象イメージを具現化
よく「あ、このマークって●●らしいよね」などと感じる商品がある。ブランドとロゴマークが、その会社あるいは商品にぴったりなとき、そう感じる。CI(Corporate Identity)などはその典型的な対象だが、ソール・バスがその名人であることも、コーセー化粧品や京王百貨店の例を見れば納得だ。つまり、これが究極のデフォルメと言えるのではないか。
デザイナーというのは、雰囲気とか温度感を具現化するという意味で、難しいセンス(技術?)を要する職業だと常々感じる。これしかないとか、これ以上はムリとかいう何かを作り上げた人が一流なのだと思う。
柳原は、そうしたプロセスを経て、自然とものごとをシンプル化する術、さらにはデフォルメする術を身につけていったのだろう。
柳原の作ったマーク
柳原は、商船三井のコンテナに描くマークのデザインを依頼され、右肩(?)で荷物を担ぐワニを描いた。コンテナは船とトラックで運ばれるから水陸両棲生物であるワニになったらしい。その結果できたマークを下に載せておく。
商船三井のコーポレート・サイトには、柳原の作品が多数掲示された『柳原良平名誉船長ミュージアム』が常設されており、中に「ライブラリー」というコーナーがある。(参考:https://www.mol.co.jp/yanagihara/library.html)
そこに格納された「世界をまわれアリゲータ」というページでは、ワニのマークになった理由やプロセスを、柳原自身が解説している。柳原の思考が垣間見えて興味深かった。
水陸両棲生物ならペンギンでもカバでもよかったかもしれないが、ペンギンは力強さに欠けるし、カバは小回りが効かなそう。アグレッシブさまで考慮すると、やっぱりワニ以上に似合う動物はいないなあと、改めてこのマークが傑作だったと痛感する。残念ながらこのマーク、今は使われなくなっているのだが。
(以下、次号)
アンクル編集子
※編注
「船キチ」という表現は「尋常ではない船マニア」といったニュアンスを表しています。柳原良平が自著の中で、主に自身に対して頻繁に使用している表現ですが、そこに差別や侮蔑の意図はまったく感じられません。従って本コラムでは、他の言葉に置き換えず、あえて「船キチ」という単語をそのまま使用しています。
柳原良平(やなぎはら・りょうへい)
アンクル編集子
※編注
「船キチ」という表現は「尋常ではない船マニア」といったニュアンスを表しています。柳原良平が自著の中で、主に自身に対して頻繁に使用している表現ですが、そこに差別や侮蔑の意図はまったく感じられません。従って本コラムでは、他の言葉に置き換えず、あえて「船キチ」という単語をそのまま使用しています。
柳原良平原画・複製画
柳原良平原画・複製画
柳原良平アクリルフォト
柳原良平アクリルフォト
柳原良平主義 ~RyoheIZM~
アンクルトリス(アンクル船長)は2.5頭身。そして、ちびまる子ちゃんも2.5頭身だ。これに気づいたときは驚いた。気付いた自分を褒めてやりたい!
ちびまる子ちゃんの著者、さくらももこは、ちびまる子ちゃんのキャラクターを完成させるにあたって柳原良平、またはアンクルトリスを意識などしていなかっただろう。両者ともすでに故人となっているので知ることはできないが。
山口瞳といえば、寿屋(現サントリーホールディングス)時代の柳原良平の同僚であり、「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」の名コピーを考えた人物として、本稿の読者ならすでにご存知のことと思う。
レイを首にかけたアンクルトリスとハワイ各島のイラストによる地図、そこにこのコピーが配された新聞の広告やテレビCMは大きな反響を呼び、この年(1961年)の流行語となるほど広まった。
アーティストはみな独自の個性を持っているが、その個性を確立するには、それぞれきっかけがあるようだ。たとえばゴッホの独特のタッチや印象的な黄色の使い方は、彼がパリからアルルに引っ越して「ひまわり」を描いたことがきっかけだと言われており、有名な作品はその時期以降に描かれたものが多い。
アルル以前のパリでは、モネやルノワールなどの印象派の画家たちをはじめ、スーラの点描や日本の浮世絵などに影響を受け、さまざまな技法を用いた作品を残したが、ひまわり以降の作品ほど評価は高くない。
柳原良平主義 ~RyoheIZM~
アンクルトリス(アンクル船長)は2.5頭身。そして、ちびまる子ちゃんも2.5頭身だ。これに気づいたときは驚いた。気付いた自分を褒めてやりたい!
ちびまる子ちゃんの著者、さくらももこは、ちびまる子ちゃんのキャラクターを完成させるにあたって柳原良平、またはアンクルトリスを意識などしていなかっただろう。両者ともすでに故人となっているので知ることはできないが。
山口瞳といえば、寿屋(現サントリーホールディングス)時代の柳原良平の同僚であり、「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」の名コピーを考えた人物として、本稿の読者ならすでにご存知のことと思う。
レイを首にかけたアンクルトリスとハワイ各島のイラストによる地図、そこにこのコピーが配された新聞の広告やテレビCMは大きな反響を呼び、この年(1961年)の流行語となるほど広まった。
アーティストはみな独自の個性を持っているが、その個性を確立するには、それぞれきっかけがあるようだ。たとえばゴッホの独特のタッチや印象的な黄色の使い方は、彼がパリからアルルに引っ越して「ひまわり」を描いたことがきっかけだと言われており、有名な作品はその時期以降に描かれたものが多い。
アルル以前のパリでは、モネやルノワールなどの印象派の画家たちをはじめ、スーラの点描や日本の浮世絵などに影響を受け、さまざまな技法を用いた作品を残したが、ひまわり以降の作品ほど評価は高くない。