柳原良平主義 ~RyoheIZM~18
アニメーション作家として
柳原良平は、アニメーションについても先進的な役割を果たしている。そこに登場するキャラクターとして生まれたのが1958年に登場したアンクルトリスだったということも、コラム(第2回)に書いた。今回は、アニメーション作家としての柳原にも触れておこう。
アニメの原点
柳原は、1957年に日本公開された映画『八十日間世界一周』を観て、革命的デザイナーと称されたソール・バスが手がけたオープニング・シークエンスを発見し、衝撃を受ける。映画本編をダイジェストするかのような内容で、冒頭の数分に流れたこのアニメーションに、柳原の感性は大いに揺さぶられたわけだが、これがアニメーションに関する原体験だったと思われる。
テレビの普及とともに
1950年代、日本ではテレビ(まだモノクロ)が急速に普及し、新聞をしのぐ影響力を持つメディアになっていくことを予感させた、そんな時代だった。そこで注目されたのは、番組の途中に挟み込まれるCMだ。
世の動きに敏感だったのが、宣伝に積極的な寿屋(現・サントリーホールディングス)。テレビという新メディアに大きな可能性を見出し、すぐにアプローチすることを決定。PRするのは当時の主力商品、トリスウイスキーだ。
テレビCMを作るように、と柳原たち宣伝部に会社からの指示が届いたとき、柳原はどう思っただろう。ソール・バスに大いに影響されていた柳原にとってCM制作、つまりアニメーション制作の話は、刺激的なチャレンジだったと思う。
このCMの制作には以前も書いたように、柳原と開高健、そしてデザイナーの酒井睦雄の3人が関わった。アンクルトリスのキャラクター自体は30分程度で生まれたらしいが、そのキャラクターをテレビの中でどう動かすのかというアイディアはまた別で、それこそが大きな問題だった。
アンクルトリスを、どう動かす?
結局アイディアとしては、トリスウイスキーを飲むほどに顔が赤くなっていく様子をアニメーションで表現することになった。開高健のアイディアがヒントになったらしい。柳原たちは、具体的にどんなアニメーションを作ったのか。
柳原は、比較的色白な(アンクルトリスの)顔の下部から上に向かって、時間とともに濃い色がせり上がっていくようにした。徐々に赤ら顔になっていく、つまり酔いが回っていく様子を表現したわけだ。
モノクロ画面だから、顔の色が薄い色から濃い色に変わっていくだけなのだが、顔色が赤くなり、ご機嫌になっていくように見えるから面白い。シンプルで効果的なアイディアだった。
CMが大きな話題に
この寿屋によるテレビCMは、1年間という長期間にわたって放送されることになる。理由は、柳原が第二弾のアイディアがなかなか出なかったからと正直に告白している。だが結果的にこのCM(とトリスウイスキー)は、そのためもあってか日本全国に浸透し、寿屋は電通のテレビコマーシャル賞を受賞した。そして柳原には新たに、アニメーション作家という肩書きがプラスされる。
その後、この3人に山口瞳が加わり、翌1959年には西部劇の設定でテンガロンハットを被ったアンクルトリスが登場し、バックに浪曲を流すといった斬新なアイディアによる別バージョンが制作された。そしてこの年、アンクルトリスのコマーシャルは、毎日産業デザイン賞を受賞。柳原と開高、山口と、酒井の4人が揃って表彰される。
他社から仕事の依頼が
すると、今度はその受賞がきっかけとなり、朝日新聞社から日曜版の連載漫画の依頼が舞い込む。柳原は表彰時の3人をブレーンにするという条件で引き受ける。それが『ピカロじいさん』(命名は開高健)だ。こうして柳原は、さらに漫画家という肩書きも持つことになった。
1959年、柳原は寿屋を退職し、嘱託となった。他からの仕事が数多く舞い込んでくるようになったからだ。他にも装丁の仕事なども受けていた。
1963年、寿屋はサントリー株式会社となり、翌1964年に柳原らは、広告制作会社としてサントリー系列のサン・アドを設立し、サントリー関連の広告の制作をそこで手がけるようになる。
アニメーションの追求
アニメーションという新しい作品作りに手応えを感じた柳原は、1960年には、漫画家・久里洋二と画家・真鍋博とともに「3人のアニメーションの会」を設立し、『池田屋騒動』(1964年)など実験的なアニメーションを自主制作するようになる。
ちなみにこの「3人のアニメーションの会」は、他のアニメーション作家にも門戸を解放し、1971年には日本アニメーション協会の発足につながっていく。初代会長は手塚治虫だった。
この時期の柳原は、年間300種類を超える寿屋の新聞広告を作成していたから、それだけでも多忙だったと思われるのだが、並行して装丁や漫画の連載などもこなし、さらにアニメーションにまで手を広げた。どこにそんな余力があったのかと不思議でならない。30歳前後というエネルギーに溢れる時期とはいえ、その仕事量は超人的としか思えない。
そして、アンクルトリスのアニメーションがテレビに登場してから5年を経た1963年、永遠の名作アニメ『鉄腕アトム』が登場する。(以下、次号)
柳原良平(やなぎはら・りょうへい)
アンクル編集子
※編注
「船キチ」という表現は「尋常ではない船マニア」といったニュアンスを表しています。柳原良平が自著の中で、主に自身に対して頻繁に使用している表現ですが、そこに差別や侮蔑の意図はまったく感じられません。従って本コラムでは、他の言葉に置き換えず、あえて「船キチ」という単語をそのまま使用しています。
参考文献
・『柳原良平のわが人生』(如月出版)
柳原良平原画・複製画
柳原良平アクリルフォト
柳原良平主義 ~RyoheIZM~
アンクルトリス(アンクル船長)は2.5頭身。そして、ちびまる子ちゃんも2.5頭身だ。これに気づいたときは驚いた。気付いた自分を褒めてやりたい!
ちびまる子ちゃんの著者、さくらももこは、ちびまる子ちゃんのキャラクターを完成させるにあたって柳原良平、またはアンクルトリスを意識などしていなかっただろう。両者ともすでに故人となっているので知ることはできないが。
山口瞳といえば、寿屋(現サントリーホールディングス)時代の柳原良平の同僚であり、「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」の名コピーを考えた人物として、本稿の読者ならすでにご存知のことと思う。
レイを首にかけたアンクルトリスとハワイ各島のイラストによる地図、そこにこのコピーが配された新聞の広告やテレビCMは大きな反響を呼び、この年(1961年)の流行語となるほど広まった。
アーティストはみな独自の個性を持っているが、その個性を確立するには、それぞれきっかけがあるようだ。たとえばゴッホの独特のタッチや印象的な黄色の使い方は、彼がパリからアルルに引っ越して「ひまわり」を描いたことがきっかけだと言われており、有名な作品はその時期以降に描かれたものが多い。
アルル以前のパリでは、モネやルノワールなどの印象派の画家たちをはじめ、スーラの点描や日本の浮世絵などに影響を受け、さまざまな技法を用いた作品を残したが、ひまわり以降の作品ほど評価は高くない。
柳原良平主義 ~RyoheIZM~18
Nov 9, 2023
アニメーション作家として
柳原良平は、アニメーションについても先進的な役割を果たしている。そこに登場するキャラクターとして生まれたのが1958年に登場したアンクルトリスだったということも、コラム(第2回)に書いた。今回は、アニメーション作家としての柳原にも触れておこう。
アニメの原点
柳原は、1957年に日本公開された映画『八十日間世界一周』を観て、革命的デザイナーと称されたソール・バスが手がけたオープニング・シークエンスを発見し、衝撃を受ける。映画本編をダイジェストするかのような内容で、冒頭の数分に流れたこのアニメーションに、柳原の感性は大いに揺さぶられたわけだが、これがアニメーションに関する原体験だったと思われる。
テレビの普及とともに
1950年代、日本ではテレビ(まだモノクロ)が急速に普及し、新聞をしのぐ影響力を持つメディアになっていくことを予感させた、そんな時代だった。そこで注目されたのは、番組の途中に挟み込まれるCMだ。
世の動きに敏感だったのが、宣伝に積極的な寿屋(現・サントリーホールディングス)。テレビという新メディアに大きな可能性を見出し、すぐにアプローチすることを決定。PRするのは当時の主力商品、トリスウイスキーだ。
テレビCMを作るように、と柳原たち宣伝部に会社からの指示が届いたとき、柳原はどう思っただろう。ソール・バスに大いに影響されていた柳原にとってCM制作、つまりアニメーション制作の話は、刺激的なチャレンジだったと思う。
このCMの制作には以前も書いたように、柳原と開高健、そしてデザイナーの酒井睦雄の3人が関わった。アンクルトリスのキャラクター自体は30分程度で生まれたらしいが、そのキャラクターをテレビの中でどう動かすのかというアイディアはまた別で、それこそが大きな問題だった。
アンクルトリスを、どう動かす?
結局アイディアとしては、トリスウイスキーを飲むほどに顔が赤くなっていく様子をアニメーションで表現することになった。開高健のアイディアがヒントになったらしい。柳原たちは、具体的にどんなアニメーションを作ったのか。
柳原は、比較的色白な(アンクルトリスの)顔の下部から上に向かって、時間とともに濃い色がせり上がっていくようにした。徐々に赤ら顔になっていく、つまり酔いが回っていく様子を表現したわけだ。
モノクロ画面だから、顔の色が薄い色から濃い色に変わっていくだけなのだが、顔色が赤くなり、ご機嫌になっていくように見えるから面白い。シンプルで効果的なアイディアだった。
CMが大きな話題に
この寿屋によるテレビCMは、1年間という長期間にわたって放送されることになる。理由は、柳原が第二弾のアイディアがなかなか出なかったからと正直に告白している。だが結果的にこのCM(とトリスウイスキー)は、そのためもあってか日本全国に浸透し、寿屋は電通のテレビコマーシャル賞を受賞した。そして柳原には新たに、アニメーション作家という肩書きがプラスされる。
その後、この3人に山口瞳が加わり、翌1959年には西部劇の設定でテンガロンハットを被ったアンクルトリスが登場し、バックに浪曲を流すといった斬新なアイディアによる別バージョンが制作された。そしてこの年、アンクルトリスのコマーシャルは、毎日産業デザイン賞を受賞。柳原と開高、山口と、酒井の4人が揃って表彰される。
他社から仕事の依頼が
すると、今度はその受賞がきっかけとなり、朝日新聞社から日曜版の連載漫画の依頼が舞い込む。柳原は表彰時の3人をブレーンにするという条件で引き受ける。それが『ピカロじいさん』(命名は開高健)だ。こうして柳原は、さらに漫画家という肩書きも持つことになった。
1959年、柳原は寿屋を退職し、嘱託となった。他からの仕事が数多く舞い込んでくるようになったからだ。他にも装丁の仕事なども受けていた。
1963年、寿屋はサントリー株式会社となり、翌1964年に柳原らは、広告制作会社としてサントリー系列のサン・アドを設立し、サントリー関連の広告の制作をそこで手がけるようになる。
アニメーションの追求
アニメーションという新しい作品作りに手応えを感じた柳原は、1960年には、漫画家・久里洋二と画家・真鍋博とともに「3人のアニメーションの会」を設立し、『池田屋騒動』(1964年)など実験的なアニメーションを自主制作するようになる。
ちなみにこの「3人のアニメーションの会」は、他のアニメーション作家にも門戸を解放し、1971年には日本アニメーション協会の発足につながっていく。初代会長は手塚治虫だった。
この時期の柳原は、年間300種類を超える寿屋の新聞広告を作成していたから、それだけでも多忙だったと思われるのだが、並行して装丁や漫画の連載などもこなし、さらにアニメーションにまで手を広げた。どこにそんな余力があったのかと不思議でならない。30歳前後というエネルギーに溢れる時期とはいえ、その仕事量は超人的としか思えない。
そして、アンクルトリスのアニメーションがテレビに登場してから5年を経た1963年、永遠の名作アニメ『鉄腕アトム』が登場する。
(以下、次号)
アンクル編集子
※編注
「船キチ」という表現は「尋常ではない船マニア」といったニュアンスを表しています。柳原良平が自著の中で、主に自身に対して頻繁に使用している表現ですが、そこに差別や侮蔑の意図はまったく感じられません。従って本コラムでは、他の言葉に置き換えず、あえて「船キチ」という単語をそのまま使用しています。
参考文献
・『柳原良平のわが人生』(如月出版)
柳原良平原画・複製画
柳原良平アクリルフォト
柳原良平主義 ~RyoheIZM~
アンクルトリス(アンクル船長)は2.5頭身。そして、ちびまる子ちゃんも2.5頭身だ。これに気づいたときは驚いた。気付いた自分を褒めてやりたい!
ちびまる子ちゃんの著者、さくらももこは、ちびまる子ちゃんのキャラクターを完成させるにあたって柳原良平、またはアンクルトリスを意識などしていなかっただろう。両者ともすでに故人となっているので知ることはできないが。
山口瞳といえば、寿屋(現サントリーホールディングス)時代の柳原良平の同僚であり、「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」の名コピーを考えた人物として、本稿の読者ならすでにご存知のことと思う。
レイを首にかけたアンクルトリスとハワイ各島のイラストによる地図、そこにこのコピーが配された新聞の広告やテレビCMは大きな反響を呼び、この年(1961年)の流行語となるほど広まった。
アーティストはみな独自の個性を持っているが、その個性を確立するには、それぞれきっかけがあるようだ。たとえばゴッホの独特のタッチや印象的な黄色の使い方は、彼がパリからアルルに引っ越して「ひまわり」を描いたことがきっかけだと言われており、有名な作品はその時期以降に描かれたものが多い。
アルル以前のパリでは、モネやルノワールなどの印象派の画家たちをはじめ、スーラの点描や日本の浮世絵などに影響を受け、さまざまな技法を用いた作品を残したが、ひまわり以降の作品ほど評価は高くない。