mio MURAO

1952年、徳島市に生まれる。1972年、別冊少年ジャンプ「かっぱラブラブ大作戦」でデビュー。1974年「ふたごバンザイ」で第7回手塚賞佳作を受賞。その後、1977年小学館、月刊マンガくんにてギャグマンガ「アホ山一家」で初の連載を開始。1980年、週刊少年マガジンに思春期の男女の恋愛感情を描いた「胸さわぎの放課後」が爆発的なヒット作となる。この大ヒットによって、当時まだ揺籃期にあったラブコメがジャンルとしてマンガ界に完全に確立することになる。それ以降「結婚ゲーム」「ときめきのジン」「微熱MY LOVE」とヒット作を連発、多くの作品が映画化、ドラマ化される。


1990年代に入ると作品発表の場をヤング誌、青年誌へと移し、作品内容もヤングチャンピオン「サークルゲーム」では従来のラブコメから男女間の愛憎といったより深い人間性を追求したサスペンス色の強いものへと変わっていく。この流れがそれ以降の作品「赤い糸」「ウィメン」「BLOOD RAIN」「XENOSクセノス」「すえぜん‐据え膳-」さらに大ヒット作「SとM」へと繋がっていくことになる。


マンガ家だけではなく原作者としても2004年に週刊少年チャンピオンに「かりんと」を永幻嵩人のペンネームで、2011年からは村生ミオ名義で週刊漫画TIMES「恥じらう肌」、2018年には週刊漫画ゴラク「フェイス背徳の囁き」などを発表。
2022年死去。(コメントは村生ミオ先生のマネージャーを務めた弟さんのものです。)

mio MURAO

1952年、徳島市に生まれる。1972年、別冊少年ジャンプ「かっぱラブラブ大作戦」でデビュー。1974年「ふたごバンザイ」で第7回手塚賞佳作を受賞。その後、1977年小学館、月刊マンガくんにてギャグマンガ「アホ山一家」で初の連載を開始。1980年、週刊少年マガジンに思春期の男女の恋愛感情を描いた「胸さわぎの放課後」が爆発的なヒット作となる。この大ヒットによって、当時まだ揺籃期にあったラブコメがジャンルとしてマンガ界に完全に確立することになる。それ以降「結婚ゲーム」「ときめきのジン」「微熱MY LOVE」とヒット作を連発、多くの作品が映画化、ドラマ化される。


1990年代に入ると作品発表の場をヤング誌、青年誌へと移し、作品内容もヤングチャンピオン「サークルゲーム」では従来のラブコメから男女間の愛憎といったより深い人間性を追求したサスペンス色の強いものへと変わっていく。この流れがそれ以降の作品「赤い糸」「ウィメン」「BLOOD RAIN」「XENOSクセノス」「すえぜん‐据え膳-」さらに大ヒット作「SとM」へと繋がっていくことになる。


マンガ家だけではなく原作者としても2004年に週刊少年チャンピオンに「かりんと」を永幻嵩人のペンネームで、2011年からは村生ミオ名義で週刊漫画TIMES「恥じらう肌」、2018年には週刊漫画ゴラク「フェイス背徳の囁き」などを発表。

2022年死去。(コメントは村生ミオ先生のマネージャーを務めた弟さんのものです。)