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アンクル編集子
Aug 10, 2023

柳原良平主義 ~RyoheIZM~06

柳原良平主義 ~RyoheIZM~06

アンクル編集子

Aug 10, 2023

「船キチ」の、よこはま愛・みなと愛

「船キチ」の、よこはま愛・みなと愛

銘菓が復活

銘菓が復活

柳原良平は横浜を愛した。山手の丘の中腹に住み書斎兼作業部屋から港を見ながら多くの作品を生み出した(数年後、他の建築物のせいで港は見えなくなってしまったが)。そんな彼の作品が大好きな、横浜に社屋を構える会社の代表がいた。彼は、既存の自社商品をもう一段階盛り上げる起爆剤は、柳原良平が描く絵のパワーだとひらめいた。

株式会社ありあけ会長・藤⽊久三氏。1999年、倒産により惜しまれつつ市場から姿を消した『ハーバー』を2001年に復活させた立役者だ。

港町・横浜の銘菓のひとつに『ハーバー』と名付けられた舟形の洋菓子がある。栗がふんだんに練り込まれた贅沢な菓子として関東を中心に人気を誇った。そんな銘菓を作っていた会社が倒産したというニュース(1999年)に驚いた藤木氏。市民を中心に上がった復活を望む声に背中を押され、立ち上がった。

柳原良平は横浜を愛した。山手の丘の中腹に住み書斎兼作業部屋から港を見ながら多くの作品を生み出した(数年後、他の建築物のせいで港は見えなくなってしまったが)。そんな彼の作品が大好きな、横浜に社屋を構える会社の代表がいた。彼は、既存の自社商品をもう一段階盛り上げる起爆剤は、柳原良平が描く絵のパワーだとひらめいた。

株式会社ありあけ会長・藤⽊久三氏。1999年、倒産により惜しまれつつ市場から姿を消した『ハーバー』を2001年に復活させた立役者だ。

港町・横浜の銘菓のひとつに『ハーバー』と名付けられた舟形の洋菓子がある。栗がふんだんに練り込まれた贅沢な菓子として関東を中心に人気を誇った。そんな銘菓を作っていた会社が倒産したというニュース(1999年)に驚いた藤木氏。市民を中心に上がった復活を望む声に背中を押され、立ち上がった。

復活秘話

話は逸れるが、ハーバー復活のキャンペーン初日(2001年4月26日)のこと。藤木氏が店頭で、タスキ姿でチラシを撒いていると、ひとりの女性が近づいてきた。

尋常ではない女性の表情に藤木氏は「どうかしましたか?」と尋ねた。女性は「ハーバーって亡くなった母が大好きだったお菓子なんです。復活するなんて母が帰ってきたみたいで、嬉しくて」と、ポロポロ涙を流しながら藤木氏の手を握りしめた。このときの感動が忘れられず藤木氏は、社の理念に「感動」の2文字を入れる。

復活数年後のリニューアル

復活秘話

キャンペーンは成功し、ハーバーは見事に復活! が、さすがに数年経てば売れ行きは落ち着くもの。間もなく訪れる2009年は、横浜港の開港150周年記念の年で記念行事が予定されている。横浜市が音頭を取り、在横浜の企業が続々と記念行事への参加を決め、地元横浜を盛り上げるアイディアに知恵を絞っている、そんな時期だった。

藤木氏は意を決して柳原良平に手紙を書く。「弊社の商品『ハーバー』に、先生の絵を使わせていただけないでしょうか?」と。ハーバーの歴史を説明したうえ、パッケージを一新して新しいハーバーをスタートさせたいという内容だった。藤木氏の声がけで、ハーバー復活キャンペーンから会社に参加し、復活に尽力した現社長・堀越隆宏氏が当時を振り返る。


「返事はすぐ来ました。『それなら新たに描くので商品を教えてください』っていう内容でした。ウチとしては、柳原先生が描いた絵の中から適当なものを使わせていただければっていう希望だったのに、先生はハーバーのために新作を描いてくださるという」

望外の返事に藤木久三氏は喜んだ。主力商品の『横濱ハーバー(ダブルマロン)』、『黒船ハーバー(ショコラクルミ)』、『横濱ベイブリッジサブレ』の資料をすぐ送った。結果、届いた絵の中で看板商品『横濱ハーバー』に使われたのが冒頭のカットだ。

話は逸れるが、ハーバー復活のキャンペーン初日(2001年4月26日)のこと。藤木氏が店頭で、タスキ姿でチラシを撒いていると、ひとりの女性が近づいてきた。

尋常ではない女性の表情に藤木氏は「どうかしましたか?」と尋ねた。女性は「ハーバーって亡くなった母が大好きだったお菓子なんです。
復活するなんて母が帰ってきたみたいで、嬉しくて」と、ポロポロ涙を流しながら藤木氏の手を握りしめた。このときの感動が忘れられず藤木氏は、社の理念に「感動」の2文字を入れる。

復活数年後のリニューアル

見事な切り絵

キャンペーンは成功し、ハーバーは見事に復活! が、さすがに数年経てば売れ行きは落ち着くもの。間もなく訪れる2009年は、横浜港の開港150周年記念の年で記念行事が予定されている。横浜市が音頭を取り、在横浜の企業が続々と記念行事への参加を決め、地元横浜を盛り上げるアイディアに知恵を絞っている、そんな時期だった。

藤木氏は意を決して柳原良平に手紙を書く。「弊社の商品『ハーバー』に、先生の絵を使わせていただけないでしょうか?」と。ハーバーの歴史を説明したうえ、パッケージを一新して新しいハーバーをスタートさせたいという内容だった。藤木氏の声がけで、ハーバー復活キャンペーンから会社に参加し、復活に尽力した現社長・堀越隆宏氏が当時を振り返る。

「返事はすぐ来ました。『それなら新たに描くので商品を教えてください』っていう内容でした。ウチとしては、柳原先生が描いた絵の中から適当なものを使わせていただければっていう希望だったのに、先生はハーバーのために新作を描いてくださるという」

望外の返事に藤木久三氏は喜んだ。主力商品の『横濱ハーバー(ダブルマロン)』、『黒船ハーバー(ショコラクルミ)』、『横濱ベイブリッジサブレ』の資料をすぐ送った。結果、届いた絵の中で看板商品『横濱ハーバー』に使われたのが冒頭のカットだ。

見事な切り絵

ちなみに、特別にこの原画を見せてもらったが、船上から投げられているテープは、すべて色紙をカミソリでカットして貼り付けた「切り絵」だ。

原画は約10〜15cm四方の大きさ。従ってテープはどれも2mmほどの幅だ。すべて平行に、しかも滑らかにカットされている(ねじれている部分はもちろん細く)。なんという精密な作業! 


「器用貧乏」という言葉はあるが、柳原の場合は「器用セレブ」とでも呼ぶべきか。いや「器用」などという表現はアーティスト・柳原良平に対して失礼だ。とにかく滑らかで美しいとしか言いようがない。10〜15cm四方に凝縮されたそのアートを見つめ5分間、感動のひとときを過ごした。

ちなみに、特別にこの原画を見せてもらったが、船上から投げられているテープは、すべて色紙をカミソリでカットして貼り付けた「切り絵」だ。

原画は約10〜15cm四方の大きさ。従ってテープはどれも2mmほどの幅だ。すべて平行に、しかも滑らかにカットされている(ねじれている部分はもちろん細く)。なんという精密な作業! 

「器用貧乏」という言葉はあるが、柳原の場合は「器用セレブ」とでも呼ぶべきか。いや「器用」などという表現はアーティスト・柳原良平に対して失礼だ。とにかく滑らかで美しいとしか言いようがない。10〜15cm四方に凝縮されたそのアートを見つめ5分間、感動のひとときを過ごした。

リニューアル成功!

復活から8年後、柳原の絵がデザインされた新ハーバーのデビューの日、堀越氏は店頭で接客しながら喜びをかみしめていた。

「ダイヤモンド地下街(現・相鉄ジョイナス)にお店があったんですが、お客様がたくさんいらっしゃってくれました。先生のファンも『あーこれですね』って。『へえ、これが新しいハーバーなんだ』って興味深く見るお客さんや『あっ、柳原さんの絵がハーバーに描かれてる。じゃあこれから、もっと買いますよ』と言ってくれたお客さんもいました。そんなふうに評判が高まって、2009年を境に取扱店舗が一気に増えました」


柳原の絵のパワーは、ハーバーの売り上げ増という結果で実績を示した。ちょうど寿屋(現・サントリーホールディングス)でアンクルトリスを描き、トリスウイスキーの売り上げに大きく貢献したときのように。


そんなわけでリニューアル以降、新ハーバーを買いに来る客は一気に増加したが、頻繁に訪れる客の中に柳原の姿があった。堀越氏は言う。

「先生はよく奥様と一緒にお店にお見えになって、いろんな方にハーバーを送っていらっしゃいました。ああいう方ですから交友関係も広かったんでしょう。しょっちゅうお越しいただいては奥様と話しながら伝票を書かれてました。もう本当に、上得意さまでした」

市民と港を結びつけ

ハーバーの一件だけでない。地元横浜を盛り上げる運動にも積極的だった。そのひとつが「横浜市民と港を結びつける会」(1977〜1989)だ。

ある日「横浜海洋科学博物館」の女性学芸員が、赤字で博物館が閉鎖されそうだと柳原宅に相談に来た。柳原はすぐ「横浜市民と港を結びつける会」を立ち上げる。日本が誇る港湾都市・横浜が、船と港関連の品々を豊富に展示する博物館を閉じるのは恥ずかしいという思いが柳原の心中だった。

会の立ち上げの声を聞き、横浜中の実力者が集結。港湾荷役事業を一手に引き受ける藤木企業の藤木幸夫氏(藤木久三氏との縁戚関係はない)をはじめ、横浜市大の医学部長に港湾学の権威である大学教授、有隣堂書店、ホテルニューグランド、市の教育委員会など、そうそうたる面々が参加した。そして市当局は閉鎖を撤回。柳原は博物館を救った。

「みなとみらい」を見つけるセンス

今では横浜有数の観光スポットになった「みなとみらい」は、元々は三菱重工業横浜造船所を移転し跡地をさらに埋め立てて新たな街を作ろうという計画から始まった。街のニックネームを募集するポスターの絵を描いたのが柳原だった。その縁で柳原は、作詞家・阿木陽子らとともに選考委員会のメンバーに(1982年)。

1ヶ月で2,292点の応募が集まった。その中で「みなとみらい21」をピックアップしたのが柳原。ご子息の柳原良太氏がこのときの話をしてくれた。

「あのネーミングって今は定着しましたけど、独特というか不思議な語感ですよね。よくああいうのを発掘するなあって思います。選に漏れていたのをわざわざ」

そう。膨大な応募が寄せられたため、事前に市の企画調整局が粗選りし96点に絞られていた。だが柳原は選外から「みなとみらい21」は探し出した。最終的に「みなとみらい21」と「赤い靴シティ」との一騎打ちとなり、投票の結果「みなとみらい21」に軍配が上がる。良太氏は言う。

「父はいろんなところで意見を求められても簡単に答えちゃうんです。迷いがないからなんでしょうね。価値観をはっきり持ってるんです。たとえばこのネーミングなら「横文字はよくない」とかね。その辺のスパッと言い切るところは日常生活でも垣間見てました。決断力あるなあって思ってました」

帆船日本丸を、ぜひ横浜に!

そうして名付けられた「みなとみらい」地区の代表的なシンボルが、優雅な姿で観光客の目を楽しませる「帆船日本丸」だ。“海の貴婦人”または“太平洋の白鳥”と呼ばれるこの美しい帆船を、横浜に誘致するのに尽力したのも先述の「横浜市民と港を結びつける会」だった。彼らは大桟橋にテーブルを置いて署名運動を行い、最終的に83万人を超える署名を集めた。


83万人という結果に、誘致運動の本体「帆船日本丸誘致保存促進会」の会長を務めていた当時の市長・細郷道一氏が一大奮起。市長選での細郷氏の得票数は50万票だったのに、署名の人数が大きく上回ったからだ。選挙(の得票数)で就任した市長なら票数の重みは誰より深く理解している。名だたる10都市が名乗りを上げた帆船日本丸の誘致合戦は、1983年に横浜が勝利した。

帆船日本丸と隣同士の、柳原作品群

柳原の尽力により閉鎖を免れた横浜海洋科学博物館はその後、日本丸が浮かぶドックのすぐ隣に場所を移し、新体制の「横浜マリタイムミュージアム」(1989年〜)に役目を譲るかたちで1988年に閉館。マリタイムミュージアムは2009年に「横浜みなと博物館」と改名された。そしてその1階には「柳原良平アートミュージアム」というコーナーが常設され、柳原の作品が150点ほど展示された。


柳原は、帆船日本丸の隣に自分の作品が常設されたことを喜んだだろう。でも実は、隣の貴婦人(帆船日本丸)のほうこそ、柳原の作品が隣にいることを喜んだのでは? 柳原は多くのファンに頼まれ、彼女の似顔絵(?)をたくさん描いてきたのだから。

ちなみに下にある彼女の似顔絵(というか、柳原とのツーショット)は、夏限定の「馬車道アイスクリンハーバー」のパッケージを飾っている。(以下次号)

アンクル編集子

ロイヤリティバンクの中の人。出版社勤務ののち独立し、雑誌やWEBなどに記事を執筆。柳原良平作品の素晴らしさに魅せられ、本コラムの連載を開始。

リニューアル成功!

※編注
「船キチ」という表現は「尋常ではない船マニア」といったニュアンスを表しています。柳原良平が自著の中で、主に自身に対して頻繁に使用している表現ですが、そこに差別や侮蔑の意図はまったく感じられません。従って本コラムでは、他の言葉に置き換えず、あえて「船キチ」という単語をそのまま使用しています。   

復活から8年後、柳原の絵がデザインされた新ハーバーのデビューの日、堀越氏は店頭で接客しながら喜びをかみしめていた。

「ダイヤモンド地下街(現・相鉄ジョイナス)にお店があったんですが、お客様がたくさんいらっしゃってくれました。先生のファンも『あーこれですね』って。『へえ、これが新しいハーバーなんだ』って興味深く見るお客さんや『あっ、柳原さんの絵がハーバーに描かれてる。じゃあこれから、もっと買いますよ』と言ってくれたお客さんもいました。そんなふうに評判が高まって、2009年を境に取扱店舗が一気に増えました」

柳原の絵のパワーは、ハーバーの売り上げ増という結果で実績を示した。ちょうど寿屋(現・サントリーホールディングス)でアンクルトリスを描き、トリスウイスキーの売り上げに大きく貢献したときのように。

そんなわけでリニューアル以降、新ハーバーを買いに来る客は一気に増加したが、頻繁に訪れる客の中に柳原の姿があった。堀越氏は言う。

「先生はよく奥様と一緒にお店にお見えになって、いろんな方にハーバーを送っていらっしゃいました。ああいう方ですから交友関係も広かったんでしょう。しょっちゅうお越しいただいては奥様と話しながら伝票を書かれてました。もう本当に、上得意さまでした」

市民と港を結びつけ

ハーバーの一件だけでない。地元横浜を盛り上げる運動にも積極的だった。そのひとつが「横浜市民と港を結びつける会」(1977〜1989)だ。

ある日「横浜海洋科学博物館」の女性学芸員が、赤字で博物館が閉鎖されそうだと柳原宅に相談に来た。柳原はすぐ「横浜市民と港を結びつける会」を立ち上げる。日本が誇る港湾都市・横浜が、船と港関連の品々を豊富に展示する博物館を閉じるのは恥ずかしいという思いが柳原の心中だった。

会の立ち上げの声を聞き、横浜中の実力者が集結。港湾荷役事業を一手に引き受ける藤木企業の藤木幸夫氏(藤木久三氏との縁戚関係はない)をはじめ、横浜市大の医学部長に港湾学の権威である大学教授、有隣堂書店、ホテルニューグランド、市の教育委員会など、そうそうたる面々が参加した。そして市当局は閉鎖を撤回。柳原は博物館を救った。

「みなとみらい」を見つけるセンス

今では横浜有数の観光スポットになった「みなとみらい」は、元々は三菱重工業横浜造船所を移転し跡地をさらに埋め立てて新たな街を作ろうという計画から始まった。街のニックネームを募集するポスターの絵を描いたのが柳原だった。その縁で柳原は、作詞家・阿木陽子らとともに選考委員会のメンバーに(1982年)。

1ヶ月で2,292点の応募が集まった。その中で「みなとみらい21」をピックアップしたのが柳原。ご子息の柳原良太氏がこのときの話をしてくれた。


「あのネーミングって今は定着しましたけど、独特というか不思議な語感ですよね。よくああいうのを発掘するなあって思います。選に漏れていたのをわざわざ」

そう。膨大な応募が寄せられたため、事前に市の企画調整局が粗選りし96点に絞られていた。だが柳原は選外から「みなとみらい21」は探し出した。最終的に「みなとみらい21」と「赤い靴シティ」との一騎打ちとなり、投票の結果「みなとみらい21」に軍配が上がる。良太氏は言う。


「父はいろんなところで意見を求められても簡単に答えちゃうんです。迷いがないからなんでしょうね。価値観をはっきり持ってるんです。たとえばこのネーミングなら「横文字はよくない」とかね。その辺のスパッと言い切るところは日常生活でも垣間見てました。決断力あるなあって思ってました」

帆船日本丸を、ぜひ横浜に!

そうして名付けられた「みなとみらい」地区の代表的なシンボルが、優雅な姿で観光客の目を楽しませる「帆船日本丸」だ。“海の貴婦人”または“太平洋の白鳥”と呼ばれるこの美しい帆船を、横浜に誘致するのに尽力したのも先述の「横浜市民と港を結びつける会」だった。彼らは大桟橋にテーブルを置いて署名運動を行い、最終的に83万人を超える署名を集めた。

83万人という結果に、誘致運動の本体「帆船日本丸誘致保存促進会」の会長を務めていた当時の市長・細郷道一氏が一大奮起。市長選での細郷氏の得票数は50万票だったのに、署名の人数が大きく上回ったからだ。選挙(の得票数)で就任した市長なら票数の重みは誰より深く理解している。名だたる10都市が名乗りを上げた帆船日本丸の誘致合戦は、1983年に横浜が勝利した。

帆船日本丸と隣同士の、柳原作品群

柳原の尽力により閉鎖を免れた横浜海洋科学博物館はその後、日本丸が浮かぶドックのすぐ隣に場所を移し、新体制の「横浜マリタイムミュージアム」(1989年〜)に役目を譲るかたちで1988年に閉館。マリタイムミュージアムは2009年に「横浜みなと博物館」と改名された。そしてその1階には「柳原良平アートミュージアム」というコーナーが常設され、柳原の作品が150点ほど展示された。

柳原は、帆船日本丸の隣に自分の作品が常設されたことを喜んだだろう。でも実は、隣の貴婦人(帆船日本丸)のほうこそ、柳原の作品が隣にいることを喜んだのでは? 柳原は多くのファンに頼まれ、彼女の似顔絵(?)をたくさん描いてきたのだから。

ちなみに下にある彼女の似顔絵(というか、柳原とのツーショット)は、夏限定の「馬車道アイスクリンハーバー」のパッケージを飾っている。(以下次号)

柳原良平(やなぎはら・りょうへい)

1931年、東京生まれ。1954年、寿屋(現・サントリーホールディングス)に入社。話題を呼ぶ広告を次々に制作し電通賞や毎日産業デザイン賞など多くの賞を受賞して退職・独立。船と港をこよなく愛し、横浜に移住。画家以外に、ぐらふぃくデザイナー、装丁家、絵本作家、アニメーター、文筆家など多彩な顔を持つ。2015年8月17日、84歳で逝去。

アンクル編集子

ロイヤリティバンクの中の人。出版社勤務ののち独立し、雑誌やWEBなどに記事を執筆。柳原良平作品の素晴らしさに魅せられ、本コラムの連載を開始。

※編注
「船キチ」という表現は「尋常ではない船マニア」といったニュアンスを表しています。柳原良平が自著の中で、主に自身に対して頻繁に使用している表現ですが、そこに差別や侮蔑の意図はまったく感じられません。従って本コラムでは、他の言葉に置き換えず、あえて「船キチ」という単語をそのまま使用しています。   

参考文献
・『船旅絵日記』(徳間文庫)

ご協力いただいた方々

●堀越隆宏(ほりこし・たかひろ) 1968年、川崎生まれ。学生時代は野球に明け暮れる。2001年に ハーバー復活実行委員会メンバーとしてキャンペーンに参画。その後ハーバーの販売活動を中心に製造・商品企画などを担当し、柳原良平と知り合う。コラボレーション企画等でさまざまなヒット商品を生み出し、新たな市場を開拓。2013年に同社社長に就任。横浜市在住。

ご協力いただいた方

●堀越隆宏(ほりこし・たかひろ) 1968年、川崎生まれ。学生時代は野球に明け暮れる。2001年に ハーバー復活実行委員会メンバーとしてキャンペーンに参画。その後ハーバーの販売活動を中心に製造・商品企画などを担当し、柳原良平と知り合う。コラボレーション企画等でさまざまなヒット商品を生み出し、新たな市場を開拓。2013年に同社社長に就任。横浜市在住。                    

柳原良平主義 ~RyoheIZM~

アンクルトリス(アンクル船長)は2.5頭身。そして、ちびまる子ちゃんも2.5頭身だ。これに気づいたときは驚いた。気付いた自分を褒めてやりたい!

ちびまる子ちゃんの著者、さくらももこは、ちびまる子ちゃんのキャラクターを完成させるにあたって柳原良平、またはアンクルトリスを意識などしていなかっただろう。両者ともすでに故人となっているので知ることはできないが。

山口瞳といえば、寿屋(現サントリーホールディングス)時代の柳原良平の同僚であり、「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」の名コピーを考えた人物として、本稿の読者ならすでにご存知のことと思う。

レイを首にかけたアンクルトリスとハワイ各島のイラストによる地図、そこにこのコピーが配された新聞の広告やテレビCMは大きな反響を呼び、この年(1961年)の流行語となるほど広まった。

『冨嶽三十六景』などを代表作とする世界的にも著名な画家・葛飾北斎(1760年〜1849年)。少年時代から版画彫りで生計を立て、19歳で浮世絵界の一大勢力のひとつの門戸を叩き、ほどなくデビューを果たして以来、生涯で34,000点にも及ぶ作品を描いた浮世絵師だ。

アーティストはみな独自の個性を持っているが、その個性を確立するには、それぞれきっかけがあるようだ。たとえばゴッホの独特のタッチや印象的な黄色の使い方は、彼がパリからアルルに引っ越して「ひまわり」を描いたことがきっかけだと言われており、有名な作品はその時期以降に描かれたものが多い。

アルル以前のパリでは、モネやルノワールなどの印象派の画家たちをはじめ、スーラの点描や日本の浮世絵などに影響を受け、さまざまな技法を用いた作品を残したが、ひまわり以降の作品ほど評価は高くない。

海洋画家と呼ばれる、船や海、港を専門に描く画家がいる。高橋健一、飯塚羚児、亀山和明や野上隼夫、世界に目を向けるとイヴァン・アイヴァゾフスキーやウィリアム・ターナーなどなど、その数は多い。 柳原良平も当然そのひとりに数えられていると思ったのだが、彼のことを純粋な海洋画家と呼ぶ記述には出会ったことがない(他の海洋画家との比較はあったが)。
アーティストはみな、作品のオリジナリティにこだわる。だから、自分の作品のどこかの段階で、他人の手が入ることを嫌うタイプも少なくない。妥協を許さないアーティストの姿勢や、納得がいくまで何度もやり直したりする話に、感動を覚えることも多々ある。
破天荒な人生を送り、作品以上に人生(生き様)が面白がられる、そんなアーティストはたくさんいるが、柳原良平はその対極に位置するアーティストのように見える。
前回は柳原良平の人間性について書いたが、今回も他のエピソードを紹介しつつ、人物としての柳原に焦点を当てる。会社に甘えない 柳原が寿屋の正社員を辞め嘱託になったのは、漫画や装丁など他社の仕事をし始めたことがきっかけだったと前回書いた。周囲に気を使ったわけだが、まだ20代の身(28歳)で思い切った決断だ。
人間の品格やスタイルについて論じる書籍がさまざまなところから出ている。一冊も読んだことがないので、もしかしたらその解釈は、世の常識とはズレているかもしれない。しかしそれでも柳原良平は、品格のあるオシャレな大人だと、つくづく思う。今回は芸術家としてではなく、人としての柳原について。
柳原良平は多作だ。そして彼が絵を描く姿を見た人はみな、描く速さに驚く。速いから多くの作品を生み出せるのだ。今回は、柳原の描くスピードについて書く。 無言で描きまくる 柳原は現場主義。船でも景色でも、まずは現物をしっかり観察する。たとえば横浜港に豪華客船が入港すると、柳原はわざわざ小舟をチャーターし、さまざまな角度からその客船を眺めつつ、写真を撮り、そして筆を走らせる。そのフィールドワークにはカメラも必需品だった。
柳原良平は、アニメーションについても先進的な役割を果たしている。そこに登場するキャラクターとして生まれたのが1958年に登場したアンクルトリスだったということも、コラム(第2回)に書いた。今回は、アニメーション作家としての柳原にも触れておこう。 柳原は、1957年に日本公開された映画『八十日間世界一周』を観て、革命的デザイナーと称されたソール・バスが手がけたオープニング・シークエンスを発見し、衝撃を受ける。
リトグラフにおいては作家と刷り師との信頼関係が、作品の出来・不出来に大きく影響するという話を以前に書いた。工房のある広島県沼隈郡を訪れ、版に絵を描いて打ち合わせを済ませた柳原は、あとの工程を刷り師である佐道二郎氏に任せて横浜の自宅に戻る。
柳原良平による作品の、最も顕著な特徴はデフォルメだ。デフォルメについては以前、縦横や遠近の”圧縮”が技法として使われていることや、20世紀に活躍した欧米のデザイナーの影響などについて書いた。 しかしそれだけでは、どうにも物足りない。そこで柳原のたどった道をもう一度だけ振り返ってみる。
2023年の上半期に放送されたNHKの連続テレビ小説『らんまん』では、主人公の槙野万太郎(神木隆之介)が石版印刷の技術を駆使して植物図鑑を完成させた。この石版印刷は通称リトグラフと呼ばれ、微細な描写を再現できる画期的な印刷技術として、日本では明治以降にまたたく間に
柳原良平の多能ぶりについては過去にも述べたが、今回はその多能ついて、もう少し詳しく触れておきたい。 画家でもありデザイナーでもあったことは書いたが、たとえば画家としても柳原は、驚くほどさまざまな手法を駆使した作品を残している。それは
たとえばフィンランドの老舗ブランド、マリメッコの定番テキスタイルは、誰が見てもすぐにマリメッコとわかる。それはもちろんポピーの花をモチーフにした、例のウニッコ(Unikko)と呼ばれるデザイン・パターンのせいでもあるが、目が覚めるような鮮やかな色彩感覚にも原因があるのではないかと思う。
柳原良平の絵に現れる個性の背景には、デザイナーとして培ったデザイン感覚があると前回のコラムで書いた。だがアート界では、画家とデザイナーとの間には大きな隔たりがあったらしい。 たとえば前回登場した、フランスの革命的デザイナーとして著名なカッサンドルの場合、デザインの仕事は、絵画で身を立てるまでの生活の手段としか考えていなかったらしい。帝京大学名誉教授・岡部氏が
柳原良平の絵は、当たり前だが他とは異なったオリジナリティがある。どこが違うかはこれまでにも何度か書いてきたが、なぜ違うか、その理由についても知りたかった。 まず思い当たるのは、柳原は画家であるだけでなく、イラストレーターであり、漫画家であり、またデザイナー、装丁家でもあったこと。 元・横浜みなと博物館館長の志澤氏によれば、
『帆走客船』とだけ題された、ペンによって描かれた原画を見た。モノクロでシンプルな線画だが、マストや飛び出した船首、帆はもちろん、帆綱(ほづな)をはじめとする多くのロープに至るまで、きっちり描き込まれている。このあたりの細かさは、
先日また柳原作品の、原画を観る機会に恵まれた。『ナポリ港の「ミケランジェロ号」』と、珍しくタイトルが絵の中に書いてある、切り絵による作品だ。 晴れわたったナポリの空の下、穏やかな港内に浮かぶ名船ミケランジェロ号の姿がなんとも優雅で、ゆったりした時間の流れが感じられ、
柳原良平の描く船は、堂々たる威風を感じさせるというより、親しみやすく可愛らしいものが多い。この親しみやすさはどこから来るのか? またその親しみやすさを、どうやって表現していたのか? 元・横浜みなと博物館館長の志澤政勝氏は、それをひと言で表現してくれた。 「変形されてますよね? つまり圧縮です」
柳原良平の「船キチ」が、いつどのように育まれたのか知りたかった。ただ彼の少年時代を知っている人は、今となっては見つからなかった。その代わり『柳原良平のわが人生』の記述から、ヒントとなった箇所を紹介する。 戦後(1945年)占領軍の統制下にあった日本は、船舶を建造することができなかったが、1946年には小型船舶の建造許可が降りた。そして翌1947年、関西在住の中学生、柳原良平(15歳)は、
柳原良平は横浜を愛した。山手の丘の中腹に住み書斎兼作業部屋から港を見ながら多くの作品を生み出した(数年後、他の建築物のせいで港は見えなくなってしまったが)。そんな彼の作品が大好きな、横浜に社屋を構える会社の代表がいた。彼は、既存の自社商品をもう一段階盛り上げる起爆剤は、柳原良平が描く絵のパワーだとひらめいた。
さて、ついに船の話だ。どこから書こうか迷うほど柳原の船愛っぷり(=知識)はどこまでも広く深い。それは『船旅絵日記』(徳間文庫)などを一読すれば、その濃度に誰もが思い知る。 排水量(総トン数)や速度、乗客数、船籍、建造会社、オーナー会社(の遷移も)などのスペックはもちろん、各キャビンの位置がわかる図に加えて一等から三等までの船室料金に至るまで詳細に記述されている。もちろん調べたりメモしたりすればわかることだという意見もあろう。だが当時は、気楽に検索して調べることなど不可能な時代。調査方法も問い合わせ先も、自力で見つけ出すしかない。
線画は、柳原良平の作品における原点だ。彼にとってスケッチは日常であり、スケッチは線画から始まる。そして彼は、線画による味わい深い作品を数多く残している。 『三人のおまわりさん』(学研)の絵は、そんな挿絵を見ることのできる作品のひとつ。主人公である三人のおまわりさんは、三人とも例によって2頭身半で、ヒゲの向き以外はほぼ同じ顔なのだが、
前回は、1958年に誕生以来、半世紀を軽く超えて今なお大活躍する不滅のキャラクター「アンクルトリス」が誕生するまでについて書いた。こんな長く活躍するとは柳原良平ご本人さえ想像していなかったのでは? これは作品の内に、作者本人すら意識しない普遍性が備わっていたことの証と言える。つまり柳原良平の作品には「魅力という名の普遍性」が備わっている。
道は、自分で切り開く 船や港は、柳原良平が一生を通じて向き合ってきたテーマであり、その絵を前にすると誰もが、オリジナリティあふれる、柳原ならではの作風に魅了される。その魅力については今後、手を替え品を替え何度も書くことになろうが、その前にあえて、彼の作品のもうひとつの特徴である、人物画の面白さにスポットを当てておきたい。
柳原良平による船の絵。それはときに埠頭に停泊して浮かぶ豪華客船であったり、ときにクレーンで荷役作業中の力強いコンテナ船であったりする。作品によっては客船の甲板から手を振る旅客や、貨物船のブリッジで針路を見つめる船長が描かれていたり。 船自体の絵は写実的な絵とはかけ離れた作風にもかかわらず、

柳原良平主義 ~RyoheIZM~

アンクルトリス(アンクル船長)は2.5頭身。そして、ちびまる子ちゃんも2.5頭身だ。これに気づいたときは驚いた。気付いた自分を褒めてやりたい!

ちびまる子ちゃんの著者、さくらももこは、ちびまる子ちゃんのキャラクターを完成させるにあたって柳原良平、またはアンクルトリスを意識などしていなかっただろう。両者ともすでに故人となっているので知ることはできないが。

山口瞳といえば、寿屋(現サントリーホールディングス)時代の柳原良平の同僚であり、「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」の名コピーを考えた人物として、本稿の読者ならすでにご存知のことと思う。

レイを首にかけたアンクルトリスとハワイ各島のイラストによる地図、そこにこのコピーが配された新聞の広告やテレビCMは大きな反響を呼び、この年(1961年)の流行語となるほど広まった。

『冨嶽三十六景』などを代表作とする世界的にも著名な画家・葛飾北斎(1760年〜1849年)。少年時代から版画彫りで生計を立て、19歳で浮世絵界の一大勢力のひとつの門戸を叩き、ほどなくデビューを果たして以来、生涯で34,000点にも及ぶ作品を描いた浮世絵師だ。

アーティストはみな独自の個性を持っているが、その個性を確立するには、それぞれきっかけがあるようだ。たとえばゴッホの独特のタッチや印象的な黄色の使い方は、彼がパリからアルルに引っ越して「ひまわり」を描いたことがきっかけだと言われており、有名な作品はその時期以降に描かれたものが多い。

アルル以前のパリでは、モネやルノワールなどの印象派の画家たちをはじめ、スーラの点描や日本の浮世絵などに影響を受け、さまざまな技法を用いた作品を残したが、ひまわり以降の作品ほど評価は高くない。

海洋画家と呼ばれる、船や海、港を専門に描く画家がいる。高橋健一、飯塚羚児、亀山和明や野上隼夫、世界に目を向けるとイヴァン・アイヴァゾフスキーやウィリアム・ターナーなどなど、その数は多い。 柳原良平も当然そのひとりに数えられていると思ったのだが、彼のことを純粋な海洋画家と呼ぶ記述には出会ったことがない(他の海洋画家との比較はあったが)。
アーティストはみな、作品のオリジナリティにこだわる。だから、自分の作品のどこかの段階で、他人の手が入ることを嫌うタイプも少なくない。妥協を許さないアーティストの姿勢や、納得がいくまで何度もやり直したりする話に、感動を覚えることも多々ある。
破天荒な人生を送り、作品以上に人生(生き様)が面白がられる、そんなアーティストはたくさんいるが、柳原良平はその対極に位置するアーティストのように見える。
前回は柳原良平の人間性について書いたが、今回も他のエピソードを紹介しつつ、人物としての柳原に焦点を当てる。会社に甘えない 柳原が寿屋の正社員を辞め嘱託になったのは、漫画や装丁など他社の仕事をし始めたことがきっかけだったと前回書いた。周囲に気を使ったわけだが、まだ20代の身(28歳)で思い切った決断だ。
人間の品格やスタイルについて論じる書籍がさまざまなところから出ている。一冊も読んだことがないので、もしかしたらその解釈は、世の常識とはズレているかもしれない。しかしそれでも柳原良平は、品格のあるオシャレな大人だと、つくづく思う。今回は芸術家としてではなく、人としての柳原について。
柳原良平は多作だ。そして彼が絵を描く姿を見た人はみな、描く速さに驚く。速いから多くの作品を生み出せるのだ。今回は、柳原の描くスピードについて書く。 無言で描きまくる 柳原は現場主義。船でも景色でも、まずは現物をしっかり観察する。たとえば横浜港に豪華客船が入港すると、柳原はわざわざ小舟をチャーターし、さまざまな角度からその客船を眺めつつ、写真を撮り、そして筆を走らせる。そのフィールドワークにはカメラも必需品だった。
柳原良平は、アニメーションについても先進的な役割を果たしている。そこに登場するキャラクターとして生まれたのが1958年に登場したアンクルトリスだったということも、コラム(第2回)に書いた。今回は、アニメーション作家としての柳原にも触れておこう。 柳原は、1957年に日本公開された映画『八十日間世界一周』を観て、革命的デザイナーと称されたソール・バスが手がけたオープニング・シークエンスを発見し、衝撃を受ける。
リトグラフにおいては作家と刷り師との信頼関係が、作品の出来・不出来に大きく影響するという話を以前に書いた。工房のある広島県沼隈郡を訪れ、版に絵を描いて打ち合わせを済ませた柳原は、あとの工程を刷り師である佐道二郎氏に任せて横浜の自宅に戻る。
柳原良平による作品の、最も顕著な特徴はデフォルメだ。デフォルメについては以前、縦横や遠近の”圧縮”が技法として使われていることや、20世紀に活躍した欧米のデザイナーの影響などについて書いた。 しかしそれだけでは、どうにも物足りない。そこで柳原のたどった道をもう一度だけ振り返ってみる。
2023年の上半期に放送されたNHKの連続テレビ小説『らんまん』では、主人公の槙野万太郎(神木隆之介)が石版印刷の技術を駆使して植物図鑑を完成させた。この石版印刷は通称リトグラフと呼ばれ、微細な描写を再現できる画期的な印刷技術として、日本では明治以降にまたたく間に
柳原良平の多能ぶりについては過去にも述べたが、今回はその多能ついて、もう少し詳しく触れておきたい。 画家でもありデザイナーでもあったことは書いたが、たとえば画家としても柳原は、驚くほどさまざまな手法を駆使した作品を残している。それは
たとえばフィンランドの老舗ブランド、マリメッコの定番テキスタイルは、誰が見てもすぐにマリメッコとわかる。それはもちろんポピーの花をモチーフにした、例のウニッコ(Unikko)と呼ばれるデザイン・パターンのせいでもあるが、目が覚めるような鮮やかな色彩感覚にも原因があるのではないかと思う。
柳原良平の絵に現れる個性の背景には、デザイナーとして培ったデザイン感覚があると前回のコラムで書いた。だがアート界では、画家とデザイナーとの間には大きな隔たりがあったらしい。 たとえば前回登場した、フランスの革命的デザイナーとして著名なカッサンドルの場合、デザインの仕事は、絵画で身を立てるまでの生活の手段としか考えていなかったらしい。帝京大学名誉教授・岡部氏が
柳原良平の絵は、当たり前だが他とは異なったオリジナリティがある。どこが違うかはこれまでにも何度か書いてきたが、なぜ違うか、その理由についても知りたかった。 まず思い当たるのは、柳原は画家であるだけでなく、イラストレーターであり、漫画家であり、またデザイナー、装丁家でもあったこと。 元・横浜みなと博物館館長の志澤氏によれば、
『帆走客船』とだけ題された、ペンによって描かれた原画を見た。モノクロでシンプルな線画だが、マストや飛び出した船首、帆はもちろん、帆綱(ほづな)をはじめとする多くのロープに至るまで、きっちり描き込まれている。このあたりの細かさは、
先日また柳原作品の、原画を観る機会に恵まれた。『ナポリ港の「ミケランジェロ号」』と、珍しくタイトルが絵の中に書いてある、切り絵による作品だ。 晴れわたったナポリの空の下、穏やかな港内に浮かぶ名船ミケランジェロ号の姿がなんとも優雅で、ゆったりした時間の流れが感じられ、
柳原良平の描く船は、堂々たる威風を感じさせるというより、親しみやすく可愛らしいものが多い。この親しみやすさはどこから来るのか? またその親しみやすさを、どうやって表現していたのか? 元・横浜みなと博物館館長の志澤政勝氏は、それをひと言で表現してくれた。 「変形されてますよね? つまり圧縮です」
柳原良平の「船キチ」が、いつどのように育まれたのか知りたかった。ただ彼の少年時代を知っている人は、今となっては見つからなかった。その代わり『柳原良平のわが人生』の記述から、ヒントとなった箇所を紹介する。 戦後(1945年)占領軍の統制下にあった日本は、船舶を建造することができなかったが、1946年には小型船舶の建造許可が降りた。そして翌1947年、関西在住の中学生、柳原良平(15歳)は、
柳原良平は横浜を愛した。山手の丘の中腹に住み書斎兼作業部屋から港を見ながら多くの作品を生み出した(数年後、他の建築物のせいで港は見えなくなってしまったが)。そんな彼の作品が大好きな、横浜に社屋を構える会社の代表がいた。彼は、既存の自社商品をもう一段階盛り上げる起爆剤は、柳原良平が描く絵のパワーだとひらめいた。
さて、ついに船の話だ。どこから書こうか迷うほど柳原の船愛っぷり(=知識)はどこまでも広く深い。それは『船旅絵日記』(徳間文庫)などを一読すれば、その濃度に誰もが思い知る。 排水量(総トン数)や速度、乗客数、船籍、建造会社、オーナー会社(の遷移も)などのスペックはもちろん、各キャビンの位置がわかる図に加えて一等から三等までの船室料金に至るまで詳細に記述されている。もちろん調べたりメモしたりすればわかることだという意見もあろう。だが当時は、気楽に検索して調べることなど不可能な時代。調査方法も問い合わせ先も、自力で見つけ出すしかない。
線画は、柳原良平の作品における原点だ。彼にとってスケッチは日常であり、スケッチは線画から始まる。そして彼は、線画による味わい深い作品を数多く残している。 『三人のおまわりさん』(学研)の絵は、そんな挿絵を見ることのできる作品のひとつ。主人公である三人のおまわりさんは、三人とも例によって2頭身半で、ヒゲの向き以外はほぼ同じ顔なのだが、
前回は、1958年に誕生以来、半世紀を軽く超えて今なお大活躍する不滅のキャラクター「アンクルトリス」が誕生するまでについて書いた。こんな長く活躍するとは柳原良平ご本人さえ想像していなかったのでは? これは作品の内に、作者本人すら意識しない普遍性が備わっていたことの証と言える。つまり柳原良平の作品には「魅力という名の普遍性」が備わっている。
道は、自分で切り開く 船や港は、柳原良平が一生を通じて向き合ってきたテーマであり、その絵を前にすると誰もが、オリジナリティあふれる、柳原ならではの作風に魅了される。その魅力については今後、手を替え品を替え何度も書くことになろうが、その前にあえて、彼の作品のもうひとつの特徴である、人物画の面白さにスポットを当てておきたい。
柳原良平による船の絵。それはときに埠頭に停泊して浮かぶ豪華客船であったり、ときにクレーンで荷役作業中の力強いコンテナ船であったりする。作品によっては客船の甲板から手を振る旅客や、貨物船のブリッジで針路を見つめる船長が描かれていたり。 船自体の絵は写実的な絵とはかけ離れた作風にもかかわらず、