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アンクル編集子
Feb 8 2024

柳原良平主義 ~RyoheIZM~27

名コンビ

大ヒットしたキャンペーン

山口瞳といえば、寿屋(現サントリーホールディングス)時代の柳原良平の同僚であり、「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」の名コピーを考えた人物として、本稿の読者ならすでにご存知のことと思う。


レイを首にかけたアンクルトリスとハワイ各島のイラストによる地図、そこにこのコピーが配された新聞の広告やテレビCMは大きな反響を呼び、この年(1961年)の流行語となるほど広まった。

成功の要因は?

何しろ当時の社長であった佐治敬三が、のちに「端的であって、夢がある。ごっついコピーやったな、あれは」と、山口との対談本で振り返ったほど時代を読んだ会心の出来のコピーだ。会社のキャンペーンを大成功に導いた。ハワイのスペルは”i”がふたつだったのか!と知った日本人もいたという(あなたは知ってましたか? 笑)。


だが大成功の要因に、柳原のイラストが欠かせなかったことは、当の山口瞳も認めていたのではないだろうか。当時の日本人の憧れだったハワイの地で、中年男性(アンクルトリス)が首にレイをかけられている(他にもバリエーションが)姿は、昭和の庶民を大いに勇気づけ、夢を与えた。

名コンビの快進撃

山口と柳原のそんな名コンビぶりは、寿屋以外でも存分に発揮されており、山口の著書における多くの作品の装丁や挿絵(カット)は柳原の手によるものであることも、よく知られている。


先日、山口瞳の『男性自身』なるコラム集を読んだ。タイトルからして意味深だ。もちろん装丁も挿絵も柳原による書籍で、表紙には小さく、手鏡に映ったメガネの男性の姿が、柳原お得意の切り絵で描かれている。タイトルと著者以外、その絵のみというシンプルなデザインの書籍。


鏡に映るメガネの男性は山口瞳なのだろう。山口が自身の顔を鏡に写し、これが男性である私自身だと言わんばかりの、タイトルに呼応する気のきいたアイディアだ。

表と裏が合わさって、初めて意味をなす

ところが裏表紙(表4)を見てさらに驚くのは、同じ手鏡が描かれているのにその中が空白となっているところ。つまり「本書を読み終わったなら、この手鏡に自分の顔を映してごらん?」と読者に語りかけている。


山口一流の視点で切り取られた日常の風景や、それにまつわる洞察を、読者は共感したり反発したり(?)しながら読了したのち、読者に対して「それで君自身はどうなの?」とメッセージを投げかけるアイディアは、秀逸としか言いようがない。

ページをめくっていくと

多くの章が並ぶが、その中に、山口瞳の女性経験が、生涯奥様ひとりだけということに触れた章がふたつある。そんなことを正直に書いてしまうのにも驚くが、直木賞作家として世に知られ、周囲から先生、先生とおだてられ(これは想像)、夜の銀座の常連でもあった人物の生涯とは、俄かに信じ難い。


決して綺麗事は書いておらず、『男性自身』というタイトルについても「そのものずばり」だと書いてあるし、周囲から女性経験について揶揄された際のニックネーム(一穴主義など)の数々や、周囲からの誘惑に負けそうになる瞬間があるとかないとか、妾になってもいいと言い寄られたときの話まで(固有名詞を隠し慎重な配慮をもって)書いている。


それどころか(自分は)「暴発性の凶器を(中略)絶えず携行し」とも書き、結局は「男性自身の敵は男性自身」とオチをつけている。まさにそのとおり! 心の中で拍手喝采する読者は多かったのではないか。

阿吽の呼吸?

と、前置きはこのくらいにして、この章に入る柳原の挿絵が面白い。前述のとおり2箇所あり、2箇所とも、男性(山口)の脳裏(頭上)に上品そうな女性のすまし顔が描かれている。その女性はいずれも同じ顔、つまり読者からは山口夫人と想像がつく仕掛けになっている。


柳原夫妻は山口夫妻と一緒に旅行しているので、山口夫人の顔も柳原はもちろん知っている。知っていて、または知っていながら(前述のような内容の)コラムにおいて奥様の顔を登場させている、ということは今風に言うなら、柳原が山口をイジっている構図に見えなくもない。


悩む山口をからかったのか、夫人を裏切らぬようプレッシャーをかけたのか、柳原の意図はわからない。だがいずれにせよこの挿絵を見ると、両者の間の深い信頼関係がジワジワ浮かび上がってくる。


柳原の長男である良太氏は、このふたりのことをこう語っている。

「あのふたりは性格的に合うんでしょうね。山口さんも礼節を重んじる方のようですし。山口さんが書かれてるものを読むとそう感じます。威張らないところとかも。なんていうのかな、堅気なところとか。きっと通じるところがあったんじゃないかなと思います」


書籍『男性自身』は、もともと『週刊新潮』の連載をまとめたもの。書籍化される前の連載時代のことを、良太氏は覚えているという。


「毎週水曜に山口さんから父に電話がかかってきて「こんな絵を描いて」みたいな注文があったんです。父がそれに合わせてサササッて描いて、次の日に新潮社の人がそのカットを取りにくるんです。それがずっと繰り返されてました」


どんな注文がなされたのかは不明だが、上記の回において、あの絵になったのは山口瞳からの注文だったのだろうか。いや、そうではなく、あのときは内容を聞いたうえで柳原の頭にひらめいたものだった!


と、思いたいのは私だけだろうか。(以下、次号)

柳原良平(やなぎはら・りょうへい)

1931年、東京生まれ。1954年、寿屋(現・サントリーホールディングス)に入社。話題を呼ぶ広告を次々に制作し電通賞や毎日産業デザイン賞など多くの賞を受賞して退職・独立。船と港をこよなく愛し、横浜に移住。画家以外に、ぐらふぃくデザイナー、装丁家、絵本作家、アニメーター、文筆家など多彩な顔を持つ。2015年8月17日、84歳で逝去。

アンクル編集子

ロイヤリティバンクの中の人。出版社勤務ののち独立し、雑誌やWEBなどに記事を執筆。柳原良平作品の素晴らしさに魅せられ、本コラムの連載を開始。

※編注
「船キチ」という表現は「尋常ではない船マニア」といったニュアンスを表しています。柳原良平が自著の中で、主に自身に対して頻繁に使用している表現ですが、そこに差別や侮蔑の意図はまったく感じられません。従って本コラムでは、他の言葉に置き換えず、あえて「船キチ」という単語をそのまま使用しています。

柳原良平原画・複製画

柳原良平アクリルフォト

柳原良平主義 ~RyoheIZM~

大桟橋や山下公園にほど近い、みなとみらい線の日本大通り駅。改札を出るとすぐ、柳原良平による大きな3点の壁画が出迎えてくれる。どれも柳原らしい作風なので、見る人が見ればすぐにそれとわかるが、知らない人でもこういう作品をみれば、きっと港町・横浜に来た感慨が深まるのではないだろうか。
版画の一種として知られるリトグラフ。柳原良平は55歳でこの技法に出会い、興味を持って工房に通い、熱心に作品作りに励んだ。と、この話はNo. 15で書いた。が、さらに書いておきたいことがあり、多少の重複をお詫びしつつ、ここに追記させていただく。ご興味のある方は、No. 15を読み返していただけると幸いだ。
柳原良平は画家であるが、デザイナーでもあることは以前に何度か書いた。寿屋(現サントリーホールディングス)時代にデザイナーであり、多忙な挿絵画家でもあったので、確かにそのとおりではある。柳原は1975年からほぼ毎年、地元・横浜の『せんたあ画廊』をホームにして個展を開催してきた(現在は、画廊AKIRA-ISAOに引き継がれている)。

アンクルトリス(アンクル船長)は2.5頭身。そして、ちびまる子ちゃんも2.5頭身だ。これに気づいたときは驚いた。気付いた自分を褒めてやりたい!

ちびまる子ちゃんの著者、さくらももこは、ちびまる子ちゃんのキャラクターを完成させるにあたって柳原良平、またはアンクルトリスを意識などしていなかっただろう。両者ともすでに故人となっているので知ることはできないが。

山口瞳といえば、寿屋(現サントリーホールディングス)時代の柳原良平の同僚であり、「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」の名コピーを考えた人物として、本稿の読者ならすでにご存知のことと思う。

レイを首にかけたアンクルトリスとハワイ各島のイラストによる地図、そこにこのコピーが配された新聞の広告やテレビCMは大きな反響を呼び、この年(1961年)の流行語となるほど広まった。

『冨嶽三十六景』などを代表作とする世界的にも著名な画家・葛飾北斎(1760年〜1849年)。少年時代から版画彫りで生計を立て、19歳で浮世絵界の一大勢力のひとつの門戸を叩き、ほどなくデビューを果たして以来、生涯で34,000点にも及ぶ作品を描いた浮世絵師だ。

アーティストはみな独自の個性を持っているが、その個性を確立するには、それぞれきっかけがあるようだ。たとえばゴッホの独特のタッチや印象的な黄色の使い方は、彼がパリからアルルに引っ越して「ひまわり」を描いたことがきっかけだと言われており、有名な作品はその時期以降に描かれたものが多い。

アルル以前のパリでは、モネやルノワールなどの印象派の画家たちをはじめ、スーラの点描や日本の浮世絵などに影響を受け、さまざまな技法を用いた作品を残したが、ひまわり以降の作品ほど評価は高くない。

海洋画家と呼ばれる、船や海、港を専門に描く画家がいる。高橋健一、飯塚羚児、亀山和明や野上隼夫、世界に目を向けるとイヴァン・アイヴァゾフスキーやウィリアム・ターナーなどなど、その数は多い。 柳原良平も当然そのひとりに数えられていると思ったのだが、彼のことを純粋な海洋画家と呼ぶ記述には出会ったことがない(他の海洋画家との比較はあったが)。
アーティストはみな、作品のオリジナリティにこだわる。だから、自分の作品のどこかの段階で、他人の手が入ることを嫌うタイプも少なくない。妥協を許さないアーティストの姿勢や、納得がいくまで何度もやり直したりする話に、感動を覚えることも多々ある。
破天荒な人生を送り、作品以上に人生(生き様)が面白がられる、そんなアーティストはたくさんいるが、柳原良平はその対極に位置するアーティストのように見える。
前回は柳原良平の人間性について書いたが、今回も他のエピソードを紹介しつつ、人物としての柳原に焦点を当てる。会社に甘えない 柳原が寿屋の正社員を辞め嘱託になったのは、漫画や装丁など他社の仕事をし始めたことがきっかけだったと前回書いた。周囲に気を使ったわけだが、まだ20代の身(28歳)で思い切った決断だ。
人間の品格やスタイルについて論じる書籍がさまざまなところから出ている。一冊も読んだことがないので、もしかしたらその解釈は、世の常識とはズレているかもしれない。しかしそれでも柳原良平は、品格のあるオシャレな大人だと、つくづく思う。今回は芸術家としてではなく、人としての柳原について。
柳原良平は多作だ。そして彼が絵を描く姿を見た人はみな、描く速さに驚く。速いから多くの作品を生み出せるのだ。今回は、柳原の描くスピードについて書く。 無言で描きまくる 柳原は現場主義。船でも景色でも、まずは現物をしっかり観察する。たとえば横浜港に豪華客船が入港すると、柳原はわざわざ小舟をチャーターし、さまざまな角度からその客船を眺めつつ、写真を撮り、そして筆を走らせる。そのフィールドワークにはカメラも必需品だった。
柳原良平は、アニメーションについても先進的な役割を果たしている。そこに登場するキャラクターとして生まれたのが1958年に登場したアンクルトリスだったということも、コラム(第2回)に書いた。今回は、アニメーション作家としての柳原にも触れておこう。 柳原は、1957年に日本公開された映画『八十日間世界一周』を観て、革命的デザイナーと称されたソール・バスが手がけたオープニング・シークエンスを発見し、衝撃を受ける。
リトグラフにおいては作家と刷り師との信頼関係が、作品の出来・不出来に大きく影響するという話を以前に書いた。工房のある広島県沼隈郡を訪れ、版に絵を描いて打ち合わせを済ませた柳原は、あとの工程を刷り師である佐道二郎氏に任せて横浜の自宅に戻る。
柳原良平による作品の、最も顕著な特徴はデフォルメだ。デフォルメについては以前、縦横や遠近の”圧縮”が技法として使われていることや、20世紀に活躍した欧米のデザイナーの影響などについて書いた。 しかしそれだけでは、どうにも物足りない。そこで柳原のたどった道をもう一度だけ振り返ってみる。
2023年の上半期に放送されたNHKの連続テレビ小説『らんまん』では、主人公の槙野万太郎(神木隆之介)が石版印刷の技術を駆使して植物図鑑を完成させた。この石版印刷は通称リトグラフと呼ばれ、微細な描写を再現できる画期的な印刷技術として、日本では明治以降にまたたく間に
柳原良平の多能ぶりについては過去にも述べたが、今回はその多能ついて、もう少し詳しく触れておきたい。 画家でもありデザイナーでもあったことは書いたが、たとえば画家としても柳原は、驚くほどさまざまな手法を駆使した作品を残している。それは
たとえばフィンランドの老舗ブランド、マリメッコの定番テキスタイルは、誰が見てもすぐにマリメッコとわかる。それはもちろんポピーの花をモチーフにした、例のウニッコ(Unikko)と呼ばれるデザイン・パターンのせいでもあるが、目が覚めるような鮮やかな色彩感覚にも原因があるのではないかと思う。
柳原良平の絵に現れる個性の背景には、デザイナーとして培ったデザイン感覚があると前回のコラムで書いた。だがアート界では、画家とデザイナーとの間には大きな隔たりがあったらしい。 たとえば前回登場した、フランスの革命的デザイナーとして著名なカッサンドルの場合、デザインの仕事は、絵画で身を立てるまでの生活の手段としか考えていなかったらしい。帝京大学名誉教授・岡部氏が
柳原良平の絵は、当たり前だが他とは異なったオリジナリティがある。どこが違うかはこれまでにも何度か書いてきたが、なぜ違うか、その理由についても知りたかった。 まず思い当たるのは、柳原は画家であるだけでなく、イラストレーターであり、漫画家であり、またデザイナー、装丁家でもあったこと。 元・横浜みなと博物館館長の志澤氏によれば、
『帆走客船』とだけ題された、ペンによって描かれた原画を見た。モノクロでシンプルな線画だが、マストや飛び出した船首、帆はもちろん、帆綱(ほづな)をはじめとする多くのロープに至るまで、きっちり描き込まれている。このあたりの細かさは、
先日また柳原作品の、原画を観る機会に恵まれた。『ナポリ港の「ミケランジェロ号」』と、珍しくタイトルが絵の中に書いてある、切り絵による作品だ。 晴れわたったナポリの空の下、穏やかな港内に浮かぶ名船ミケランジェロ号の姿がなんとも優雅で、ゆったりした時間の流れが感じられ、
柳原良平の描く船は、堂々たる威風を感じさせるというより、親しみやすく可愛らしいものが多い。この親しみやすさはどこから来るのか? またその親しみやすさを、どうやって表現していたのか? 元・横浜みなと博物館館長の志澤政勝氏は、それをひと言で表現してくれた。 「変形されてますよね? つまり圧縮です」
柳原良平の「船キチ」が、いつどのように育まれたのか知りたかった。ただ彼の少年時代を知っている人は、今となっては見つからなかった。その代わり『柳原良平のわが人生』の記述から、ヒントとなった箇所を紹介する。 戦後(1945年)占領軍の統制下にあった日本は、船舶を建造することができなかったが、1946年には小型船舶の建造許可が降りた。そして翌1947年、関西在住の中学生、柳原良平(15歳)は、
柳原良平は横浜を愛した。山手の丘の中腹に住み書斎兼作業部屋から港を見ながら多くの作品を生み出した(数年後、他の建築物のせいで港は見えなくなってしまったが)。そんな彼の作品が大好きな、横浜に社屋を構える会社の代表がいた。彼は、既存の自社商品をもう一段階盛り上げる起爆剤は、柳原良平が描く絵のパワーだとひらめいた。
さて、ついに船の話だ。どこから書こうか迷うほど柳原の船愛っぷり(=知識)はどこまでも広く深い。それは『船旅絵日記』(徳間文庫)などを一読すれば、その濃度に誰もが思い知る。 排水量(総トン数)や速度、乗客数、船籍、建造会社、オーナー会社(の遷移も)などのスペックはもちろん、各キャビンの位置がわかる図に加えて一等から三等までの船室料金に至るまで詳細に記述されている。もちろん調べたりメモしたりすればわかることだという意見もあろう。だが当時は、気楽に検索して調べることなど不可能な時代。調査方法も問い合わせ先も、自力で見つけ出すしかない。
線画は、柳原良平の作品における原点だ。彼にとってスケッチは日常であり、スケッチは線画から始まる。そして彼は、線画による味わい深い作品を数多く残している。 『三人のおまわりさん』(学研)の絵は、そんな挿絵を見ることのできる作品のひとつ。主人公である三人のおまわりさんは、三人とも例によって2頭身半で、ヒゲの向き以外はほぼ同じ顔なのだが、
前回は、1958年に誕生以来、半世紀を軽く超えて今なお大活躍する不滅のキャラクター「アンクルトリス」が誕生するまでについて書いた。こんな長く活躍するとは柳原良平ご本人さえ想像していなかったのでは? これは作品の内に、作者本人すら意識しない普遍性が備わっていたことの証と言える。つまり柳原良平の作品には「魅力という名の普遍性」が備わっている。
道は、自分で切り開く 船や港は、柳原良平が一生を通じて向き合ってきたテーマであり、その絵を前にすると誰もが、オリジナリティあふれる、柳原ならではの作風に魅了される。その魅力については今後、手を替え品を替え何度も書くことになろうが、その前にあえて、彼の作品のもうひとつの特徴である、人物画の面白さにスポットを当てておきたい。