柳原良平主義 ~RyoheIZM~31
駅を飾る大作
壁画がお出迎え
大桟橋や山下公園にほど近い、みなとみらい線の日本大通り駅。改札を出るとすぐ、柳原良平による大きな3点の壁画が出迎えてくれる。どれも柳原らしい作風なので、見る人が見ればすぐにそれとわかるが、知らない人でもこういう作品をみれば、きっと港町・横浜に来た感慨が深まるのではないだろうか。
壁画はいずれも陶器によるモザイクのような作品で、あの柔らかくて人懐っこいタッチの絵柄が5メートル四方ほどの大きさをもって目の前に立ちはだかるが、初めて観ても懐かしいような、なんとも言えない安心感にとらわれる。
大きさが大きさだから、その迫力に圧倒されると言いたいところだが、実際には圧倒されるような迫力よりも、包み込まれるような優しさが伝わってきて心が和む。
横浜の歴史を表現
1854年、日米修好通商条約が結ばれ、5年後に開港した日本。以来横浜は、欧米の洗練された文化がいち早く伝わる先進的な街として、日本の近代化を牽引した。柳原は3作を連ねることによって、港町としての横浜の今昔を描いている
左に位置する作品では、歴史的な3隻の船が仲良く停泊している。その3つとはペリー提督が乗って開国を迫った黒船と呼ばれた蒸気船「サスケハナ」、そして明治に建造され太平洋航路を巡った「天洋丸」、いちばん奥には豪華客船として有名な「クイーンエリザベス2」というラインナップだ。
面白いのはペリー提督の顔のシルエットがアンクル船長になっているところ。この辺りが柳原ならではの個性が表れている。同キャラクターの人物は他の絵にも登場しており、それぞれの絵に温かみを添えている。
背景は、ペリーが来航して開国を迫った頃、つまり江戸末期の海運所が描かれている。ペリーが来航したのは浦賀(現在の横須賀)ではあるが、その辺はご愛嬌。
真ん中は、昭和初期に横浜が日本の表玄関として発展した頃がモデルになっている。外国船の乗組員たちは、ここに描かれた(左から右に)神奈川県庁と横浜開港記念会館、横浜税関の建物を、それぞれキング、ジャック、クイーンと呼び、横浜港のシンボルとして親しんでいた。
右の作品では現在の横浜が描かれ、手前に赤レンガ倉庫、その後ろにはランドマークタワーやインターコンチネンタルホテルなどが林立する、みなとみらい21地区が佇んでいる。船は日本郵船の代表的な客船として知られた「飛鳥」だ。
陶器は、焼いて色を出す
陶器のパーツを無数に組み合わせたモザイクのような作品だが、一枚一枚の陶器の色は、陶工がさまざまな釉薬(ゆうやく)を使い分けて出していったという。
釉薬とは、素焼きした陶磁器の上にこれを塗って焼くと、焼くことで溶け、冷めることで固まり、陶器はガラス質の膜に包まれる。そして釉薬に銅や鉄などを入れることでさまざまな色が出るらしい。
まずはテスト焼きから
柳原はこのときばかりは原画を描いたのみで、後の作業は陶工に任せていたそうだが、工房には出向いて作業に立ち合い、焼き上がった際の色を確認していた。その様子を、柳原に同行した美術著作権センターの佐々木氏が語ってくれた。
「まず湯河原の工房でテストとして、縮小版を作って、それでOKになると、今度は本焼きになるんです。本焼きは信楽に大きな工房があって、そこに行って焼くんです。あれだけ大きな作品ですから何分割したかは覚えてませんが、全行程ご一緒しました」
陶工に任せ切る
その時の柳原の様子はどうだったのだろうか。
「先生の偉いところは、陶工たちに対してあれこれ言わないんですよ。好きなようにやってくれって言って任せちゃう。色の出方にしても、原画に忠実にとか、そういうこだわりはいっさい口にしませんでしたね。そういうことも含めて陶工の個性だからといって、好きなようにやってくれって言ってました」
この作品は、そんなわけで柳原が(陶器に)色を塗ったのではなく、釉薬の調合で焼き上げた際に出てきた色だ。もともと柳原の絵は、何とも言えない温かみがあるが、この大作を前にして感じる温かみは、関わった陶工たちによる職人技、あるいは職人魂による部分もあるかもしれない。(以下、次号)
柳原良平(やなぎはら・りょうへい)
アンクル編集子
※編注
「船キチ」という表現は「尋常ではない船マニア」といったニュアンスを表しています。柳原良平が自著の中で、主に自身に対して頻繁に使用している表現ですが、そこに差別や侮蔑の意図はまったく感じられません。従って本コラムでは、他の言葉に置き換えず、あえて「船キチ」という単語をそのまま使用しています。
ご協力いただいた方々
●佐々木勲(ささきいさお) 美術雑誌出版社を経て 1983 年せんたあ画廊株式会社入社。2002 年せんたあ画廊内に株式会社美術著作権センターが創立される。2016 年せんたあ画廊の解散に伴い株式会社美術著作権センターを引き継ぎ、画廊 AKIRA-ISAO を開廊。1975 年にせんたあ画廊での柳原良平初個展が開催されたのを機に柳原良平との係わりが深くなっていく。現在は株式会社美術著作権センターの代表として画廊の企画展と柳原良平の著作権管理事業を行っている。
柳原良平原画・複製画
柳原良平アクリルフォト
柳原良平主義 ~RyoheIZM~
アンクルトリス(アンクル船長)は2.5頭身。そして、ちびまる子ちゃんも2.5頭身だ。これに気づいたときは驚いた。気付いた自分を褒めてやりたい!
ちびまる子ちゃんの著者、さくらももこは、ちびまる子ちゃんのキャラクターを完成させるにあたって柳原良平、またはアンクルトリスを意識などしていなかっただろう。両者ともすでに故人となっているので知ることはできないが。
山口瞳といえば、寿屋(現サントリーホールディングス)時代の柳原良平の同僚であり、「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」の名コピーを考えた人物として、本稿の読者ならすでにご存知のことと思う。
レイを首にかけたアンクルトリスとハワイ各島のイラストによる地図、そこにこのコピーが配された新聞の広告やテレビCMは大きな反響を呼び、この年(1961年)の流行語となるほど広まった。
アーティストはみな独自の個性を持っているが、その個性を確立するには、それぞれきっかけがあるようだ。たとえばゴッホの独特のタッチや印象的な黄色の使い方は、彼がパリからアルルに引っ越して「ひまわり」を描いたことがきっかけだと言われており、有名な作品はその時期以降に描かれたものが多い。
アルル以前のパリでは、モネやルノワールなどの印象派の画家たちをはじめ、スーラの点描や日本の浮世絵などに影響を受け、さまざまな技法を用いた作品を残したが、ひまわり以降の作品ほど評価は高くない。