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柳原良平主義 ~RyoheIZM~

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  • 25: ゴッホと柳原良平
    2023, 12月 21

    25: ゴッホと柳原良平

    アンクル編集子 Jan 18 2024 柳原良平主義 ~RyoheIZM~25  Share  Tweet  Pin  Email ゴッホと柳原良平 海洋画家と呼ばれる、船や海、港を専門に描く画家がいる。高橋健一、飯塚羚児、亀山和明や野上隼夫、世界に目を向けるとイヴァン・アイアーティストはみな独自の個性を持っているが、その個性を確立するには、それぞれきっかけがあるようだ。ヴァゾフスキーやウィリアム・ターナーなどなど、その数は多い。柳原良平も当然そのひとりに数えられていると思ったのだが、彼のことを純粋な海洋画家と呼ぶ記述には出会ったことがない(他の海洋画家との比較はあったが)。 ゴッホのひまわり たとえばゴッホの独特のタッチや印象的な黄色の使い方は、彼がパリからアルルに引っ越して「ひまわり」を描いたことがきっかけだと言われており、有名な作品はその時期以降に描かれたものが多い。アルル以前のパリでは、モネやルノワールなどの印象派の画家たちをはじめ、スーラの点描や日本の浮世絵などに影響を受け、さまざまな技法を用いた作品を残したが、ひまわり以降の作品ほど評価は高くない。パリで知り合ったポール・ゴーギャンをアルルの自宅に迎えて共同生活をするためにゴッホは、画室に6点のひまわりの絵を飾ることを思い立った(最終的には7点存在するが)のが発端だが、巷で有名な「ひまわり」は、その中の1点だ。 柳原のアンクルトリス 一方、柳原良平が独自の個性を確立したきっかけは、やはり寿屋(現サントリーホールディングス)に入社し、アンクルトリスを生み出したことではないだろうか。2.5頭身のこのキャラクターは、柳原がそれまで無数に描いてきた船の絵にも影響を及ぼしたのではないかと思われるからだ。柳原はこのキャラクターを船に乗せよう思いと思いついた。だが2.5頭身というかわいい中高齢の男性(?)が乗る船を、現実の船と同様のプロポーションで、写実的に描いたのでは、どうにも釣り合わない。だから船の前後や遠近関係を圧縮したりと、このユニークなキャラクターを乗船させるために、船の絵についても、デフォルメの度合いを加速させたのではないかと推測している。ちなみにサントリーの商品とは関係なく描かれた同キャラは、”アンクルトリス”ではなく”アンクル船長”と名付けられており、船長帽をかぶったものが多い。柳原は幼少期から数えれば膨大な数の船を描いてきているが、アンクルトリス以前のものは、その多くが絵葉書で見るような写実的なタッチで描かれている。子供時代の柳原は、絵葉書に船の絵を描く仕事がしたいと夢見ていた時期もあったので、当然と言えば当然ではあるが。また美大時代に関西新制作派展に出品した絵も、写実的な油絵だった。これがその後、広告デザインを学んでいくに従い、シンプル化をはじめとするデフォルメの手法を身につけていった。 スタイルが決まると そしてひとたび自分のスタイルを確立させたのちは、恐ろしいほどのスピードで作品を量産していった柳原。だが、これに関しては先述のゴッホも同じだった。ゴッホが画家として活動したのはわずか10年ほどだったが、その間に彼が残した作品数は2,000点とも3,000点とも言われている。後期は油絵も1日で描いてしまうくらい筆が早かったそうだが、活動期間と作品数を鑑みると、それもうなづける。一方の柳原も、描くスピードにおいては定評がある。両者を単純に比べることなどはできないが、きっとスタイルを確立したアーティストにとって絵は、描く前からキャンバス上に、線や色などが見えているのだろう。柳原が描いているところを見て「筆に迷いがない」と表現した、息子の良太氏の言葉が思い起こされた。(以下、次号) 柳原良平(やなぎはら・りょうへい) 1931年、東京生まれ。1954年、寿屋(現・サントリーホールディングス)に入社。話題を呼ぶ広告を次々に制作し電通賞や毎日産業デザイン賞など多くの賞を受賞して退職・独立。船と港をこよなく愛し、横浜に移住。画家以外に、ぐらふぃくデザイナー、装丁家、絵本作家、アニメーター、文筆家など多彩な顔を持つ。2015年8月17日、84歳で逝去。 アンクル編集子 ロイヤリティバンクの中の人。出版社勤務ののち独立し、雑誌やWEBなどに記事を執筆。柳原良平作品の素晴らしさに魅せられ、本コラムの連載を開始。 ※編注「船キチ」という表現は「尋常ではない船マニア」といったニュアンスを表しています。柳原良平が自著の中で、主に自身に対して頻繁に使用している表現ですが、そこに差別や侮蔑の意図はまったく感じられません。従って本コラムでは、他の言葉に置き換えず、あえて「船キチ」という単語をそのまま使用しています。 柳原良平原画・複製画 {% assign oriProduct = product %} {% assign product = all_products['yanagihara-kirie01'] %} {% if product %}...

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  • 24: 海洋画家としての柳原良平
    2023, 12月 21

    24: 海洋画家としての柳原良平

    海洋画家と呼ばれる、船や海、港を専門に描く画家がいる。高橋健一、飯塚羚児、亀山和明や野上隼夫、世界に目を向けるとイヴァン・アイヴァゾフスキーやウィリアム・ターナーなどなど、その数は多い。 柳原良平も当然そのひとりに数えられていると思ったのだが、彼のことを純粋な海洋画家と呼ぶ記述には出会ったことがない(他の海洋画家との比較はあったが)。
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  • 23: 気にしないというスタイル
    2023, 12月 14

    23: 気にしないというスタイル

    アーティストはみな、作品のオリジナリティにこだわる。だから、自分の作品のどこかの段階で、他人の手が入ることを嫌うタイプも少なくない。妥協を許さないアーティストの姿勢や、納得がいくまで何度もやり直したりする話に、感動を覚えることも多々ある。
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  • 22: 非のうちどころは?
    2023, 12月 7

    22: 非のうちどころは?

    破天荒な人生を送り、作品以上に人生(生き様)が面白がられる、そんなアーティストはたくさんいるが、柳原良平はその対極に位置するアーティストのように見える。
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  • 21: 会社に甘えない
    2023, 11月 30

    21: 会社に甘えない

    前回は柳原良平の人間性について書いたが、今回も他のエピソードを紹介しつつ、人物としての柳原に焦点を当てる。会社に甘えない 柳原が寿屋の正社員を辞め嘱託になったのは、漫画や装丁など他社の仕事をし始めたことがきっかけだったと前回書いた。周囲に気を使ったわけだが、まだ20代の身(28歳)で思い切った決断だ。
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  • 20: 人としてのスタイル
    2023, 11月 23

    20: 人としてのスタイル

    人間の品格やスタイルについて論じる書籍がさまざまなところから出ている。一冊も読んだことがないので、もしかしたらその解釈は、世の常識とはズレているかもしれない。しかしそれでも柳原良平は、品格のあるオシャレな大人だと、つくづく思う。今回は芸術家としてではなく、人としての柳原について。
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  • 19: 速さと、早さ
    2023, 11月 16

    19: 速さと、早さ

    柳原良平は多作だ。そして彼が絵を描く姿を見た人はみな、描く速さに驚く。速いから多くの作品を生み出せるのだ。今回は、柳原の描くスピードについて書く。 無言で描きまくる 柳原は現場主義。船でも景色でも、まずは現物をしっかり観察する。たとえば横浜港に豪華客船が入港すると、柳原はわざわざ小舟をチャーターし、さまざまな角度からその客船を眺めつつ、写真を撮り、そして筆を走らせる。そのフィールドワークにはカメラも必需品だった。
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  • 18: アニメーション作家として
    2023, 10月 19

    18: アニメーション作家として

    柳原良平は、アニメーションについても先進的な役割を果たしている。そこに登場するキャラクターとして生まれたのが1958年に登場したアンクルトリスだったということも、コラム(第2回)に書いた。今回は、アニメーション作家としての柳原にも触れておこう。 柳原は、1957年に日本公開された映画『八十日間世界一周』を観て、革命的デザイナーと称されたソール・バスが手がけたオープニング・シークエンスを発見し、衝撃を受ける。
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  • 17: ひと目で全景を把握
    2023, 10月 19

    17: ひと目で全景を把握

    リトグラフにおいては作家と刷り師との信頼関係が、作品の出来・不出来に大きく影響するという話を以前に書いた。工房のある広島県沼隈郡を訪れ、版に絵を描いて打ち合わせを済ませた柳原は、あとの工程を刷り師である佐道二郎氏に任せて横浜の自宅に戻る。
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