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アンクル編集子
Jul 13, 2023

柳原良平主義 ~RyoheIZM~02

柳原良平主義 ~RyoheIZM~02

アンクル編集子

Jul 13, 2023

人物画に宿るオリジナリティ

人物画に宿るオリジナリティ

道は、自分で切り開く

道は、自分で切り開く

船や港は、柳原良平が一生を通じて向き合ってきたテーマであり、その絵を前にすると誰もが、オリジナリティあふれる、柳原ならではの作風に魅了される。その魅力については今後、手を替え品を替え何度も書くことになろうが、その前にあえて、彼の作品のもうひとつの特徴である、人物画の面白さにスポットを当てておきたい。

柳原が描く人物画はマンガチックなものが多い。一時期、漫画家としても活躍していたから当然と言えば当然だ。そしてその独特な作風ができあがるまでの道のりは、寿屋(現サントリーホールディングス)への入社からスタートした。

柳原のアルバイト先には、尊敬するアートディレクター、山崎隆夫という人物がいた。そんな山崎が寿屋にヘッドハンティングされたことを知った柳原は意を決して「僕も連れていってください」と頼み込む。これが寿屋入社のきっかけだった。

船や港は、柳原良平が一生を通じて向き合ってきたテーマであり、その絵を前にすると誰もが、オリジナリティあふれる、柳原ならではの作風に魅了される。その魅力については今後、手を替え品を替え何度も書くことになろうが、その前にあえて、彼の作品のもうひとつの特徴である、人物画の面白さにスポットを当てておきたい。

柳原が描く人物画はマンガチックなものが多い。一時期、漫画家としても活躍していたから当然と言えば当然だ。そしてその独特な作風ができあがるまでの道のりは、寿屋(現サントリーホールディングス)への入社からスタートした。

柳原のアルバイト先には、尊敬するアートディレクター、山崎隆夫という人物がいた。そんな山崎が寿屋にヘッドハンティングされたことを知った柳原は意を決して「僕も連れていってください」と頼み込む。これが寿屋入社のきっかけだった。

運も実力のうち

挿絵を描くアルバイト青年に過ぎなかった柳原の才能を見込んで、寿屋に頼み込んだ山崎の行動も頼もしいが、その頼みに「かましまへんでェ」のひと言で引き受けた佐治敬三(のちの寿屋社長)の懐も深かった。だがそうした運に恵まれたことも含めて、自分を連れていってほしいと頼み込んだ、つまり自分の道を自分で切り拓いた柳原良平の決断は、天晴れという他ない。運も実力のうちだからだ。

ちなみに「運も実力のうち」とは、実力不足を運が補っている状態を指すのではない。本人が謙遜で言う分にはいいが、他人がそのように使うのは間違っている。そうではなく、運さえ引き寄せてしまうほどの、潜在・顕在を含めた実力があることが前提となっていると考えるほうが、個人的には腑に落ちる。柳原のその後の快進撃ぶりを知ると、なおのことそう思う。

才能の塊が、続々と集結

運も実力のうち

晴れて寿屋に入社した柳原は、開高健(のちの芥川賞作家)と出会う。優秀なアートディレクター山崎隆夫をヘッドハンティングするだけあって、宣伝に力を入れる寿屋は、開高と柳原をクリエイティブの中心に据え、厳しいながらもある程度の自由を与えた。そしてその結果すぐに巷で大評判になり、鳥井信治郎(寿屋の創業者)の「やってみなはれ」精神が実らせた、会社のイメージを大きく上げる果実となった。

コピーを開高、イラストレーションを柳原がそれぞれ担当し、そこに経験豊富なデザイナーでありプロデューサーでもある坂根進が加わったトリオは最強だった。洒落ており、時代を反映したノリのいい広告は、広告業界に旋風を巻き起こし、各種の広告賞を獲りまくった。

彼らは、一流の職人同士による掛け算パワーが無敵であることを証明し続けた。その後、さらにそこに山口瞳(のちの直木賞、菊池寛賞作家)が加わる。1958年の朝日広告奨励賞やADC賞、1959年のテレビ広告電通賞を受賞するなど高い評価は相変わらずで、こうなるともう「無敵」というより「つまらないものが作れない」くらいのレベルだったのではないかと推測される。

このクリエイティブ集団は、新聞広告だけでは飽き足らず、トリスウイスキーのチェーン店向けに『洋酒天国』というPR誌まで制作。時代を最短で言い当てる気の利いたコピーと、楽し気で都会的なイラストや切り絵、そして洗練されたアートディレクションにより、それらの広告作品は大衆から圧倒的な支持を獲得した。

挿絵を描くアルバイト青年に過ぎなかった柳原の才能を見込んで、寿屋に頼み込んだ山崎の行動も頼もしいが、その頼みに「かましまへんでェ」のひと言で引き受けた佐治敬三(のちの寿屋社長)の懐も深かった。だがそうした運に恵まれたことも含めて、自分を連れていってほしいと頼み込んだ、つまり自分の道を自分で切り拓いた柳原良平の決断は、天晴れという他ない。運も実力のうちだからだ。

ちなみに「運も実力のうち」とは、実力不足を運が補っている状態を指すのではない。本人が謙遜で言う分にはいいが、他人がそのように使うのは間違っている。そうではなく、運さえ引き寄せてしまうほどの、潜在・顕在を含めた実力があることが前提となっていると考えるほうが、個人的には腑に落ちる。柳原のその後の快進撃ぶりを知ると、なおのことそう思う。

才能の塊が、続々と集結

憧れを増幅した、オシャレな挿絵

晴れて寿屋に入社した柳原は、開高健(のちの芥川賞作家)と出会う。優秀なアートディレクター山崎隆夫をヘッドハンティングするだけあって、宣伝に力を入れる寿屋は、開高と柳原をクリエイティブの中心に据え、厳しいながらもある程度の自由を与えた。そしてその結果すぐに巷で大評判になり、鳥井信治郎(寿屋の創業者)の「やってみなはれ」精神が実らせた、会社のイメージを大きく上げる果実となった。

コピーを開高、イラストレーションを柳原がそれぞれ担当し、そこに経験豊富なデザイナーでありプロデューサーでもある坂根進が加わったトリオは最強だった。洒落ており、時代を反映したノリのいい広告は、広告業界に旋風を巻き起こし、各種の広告賞を獲りまくった。

彼らは、一流の職人同士による掛け算パワーが無敵であることを証明し続けた。その後、さらにそこに山口瞳(のちの直木賞、菊池寛賞作家)が加わる。1958年の朝日広告奨励賞やADC賞、1959年のテレビ広告電通賞を受賞するなど高い評価は相変わらずで、こうなるともう「無敵」というより「つまらないものが作れない」くらいのレベルだったのではないかと推測される。

このクリエイティブ集団は、新聞広告だけでは飽き足らず、トリスウイスキーのチェーン店向けに『洋酒天国』というPR誌まで制作。時代を最短で言い当てる気の利いたコピーと、楽し気で都会的なイラストや切り絵、そして洗練されたアートディレクションにより、それらの広告作品は大衆から圧倒的な支持を獲得した。

憧れを増幅した、オシャレな挿絵

新聞広告に登場する人物画は、この時点では8頭身のオシャレな女性(赤玉ポートワインのPR用)や、足の長い若者ビジネスマン(トリスウイスキーのPR用)らが楽しく一杯やっているといったもので、マンガチックではあるものの、ひたすらオシャレでコミカルな雰囲気はない。

『洋酒天国』には、柳原の描いた酒の神バッカスやら、世界中の多様な人種が登場し、文化的に欧米への追従傾向が強かった、戦後復興〜成長期を生きる大衆の憧れを大いに煽った。全体に言えるのは、時代の最先端をいく最高に洗練されたビジュアルだったということ。寿屋の酒も、さぞ売れたことだろう。大きなお世話だが。

アンクルトリスは、機能美の象徴?

そんな時代に満を侍して誕生したのが不滅のキャラクター「アンクルトリス」だった。白黒のテレビが浸透し始めたのに目をつけた寿屋は、テレビCMへの参入を決定。それに合わせて、柳原良平と開高健、柳原の後輩になる美大卒の酒井睦雄の3人は、早速ミーティングを開始。そして驚くなかれ、30分後にはもうアンクルトリスが誕生していた。

超安産の理由。それはなんと言っても、コンセプトが秀逸だったからだ。テレビに登場することを前提に考えられたそのコンセプトは、以下3つに集約された。

(1)表情が出るように
(2)(その表情豊かな)顔が目立つように
(3)頻繁に登場しても、嫌味がないように

表情を出すために、それまで単純な黒点で描いていた人物の目は「丸いまぶたの中に黒目」を描くことで、目にニュアンスを与えた。顔が目立つようにするため、大胆に「2頭身半」のバランスにした。そして、テレビでCMが頻繁に流されても(飲酒シーンを何度も観せられても)嫌味を感じさせぬよう、若者ではなく「初老の紳士」にした。

アンクルトリスが柳原を、漫画家にした?

いわば機能的に作られたキャラクターだったが、この丸まぶた に2〜2頭身半の中高年は、ほどなく他のキャラクターにも転用され、柳原マンガに登場する人物画の標準仕様となる。

朝日新聞の5コマ漫画『ピカロじいさん』(1959年〜)、読売新聞夕刊の『今日も一日』(1963年〜)、公明新聞の『良ちゃん』(1980年〜)などを見れば、それは一目瞭然。童話の『三人のおまわりさん』も同様だった。

しかし、このキャラクターを生み出すのに30分しかかかっていないというのは奇跡としか言いようがない。おそらく、会議室に酒の神バッカスが降臨し微笑んだのだろう。なぜなら3人の脇には、バッカスが潜むのに都合のいい(撮影用)ウイスキーボトルが、鎮座していたであろうから。(以下次号)

新聞広告に登場する人物画は、この時点では8頭身のオシャレな女性(赤玉ポートワインのPR用)や、足の長い若者ビジネスマン(トリスウイスキーのPR用)らが楽しく一杯やっているといったもので、マンガチックではあるものの、ひたすらオシャレでコミカルな雰囲気はない。

『洋酒天国』には、柳原の描いた酒の神バッカスやら、世界中の多様な人種が登場し、文化的に欧米への追従傾向が強かった、戦後復興〜成長期を生きる大衆の憧れを大いに煽った。全体に言えるのは、時代の最先端をいく最高に洗練されたビジュアルだったということ。寿屋の酒も、さぞ売れたことだろう。大きなお世話だが。

アンクルトリスは、機能美の象徴?

そんな時代に満を侍して誕生したのが不滅のキャラクター「アンクルトリス」だった。白黒のテレビが浸透し始めたのに目をつけた寿屋は、テレビCMへの参入を決定。それに合わせて、柳原良平と開高健、柳原の後輩になる美大卒の酒井睦雄の3人は、早速ミーティングを開始。そして驚くなかれ、30分後にはもうアンクルトリスが誕生していた。

超安産の理由。それはなんと言っても、コンセプトが秀逸だったからだ。テレビに登場することを前提に考えられたそのコンセプトは、以下3つに集約された。

(1)表情が出るように
(2)(その表情豊かな)顔が目立つように
(3)頻繁に登場しても、嫌味がないように

表情を出すために、それまで単純な黒点で描いていた人物の目は「丸いまぶたの中に黒目」を描くことで、目にニュアンスを与えた。顔が目立つようにするため、大胆に「2頭身半」のバランスにした。そして、テレビでCMが頻繁に流されても(飲酒シーンを何度も観せられても)嫌味を感じさせぬよう、若者ではなく「初老の紳士」にした。

アンクル編集子

ロイヤリティバンクの中の人。出版社勤務ののち独立し、雑誌やWEBなどに記事を執筆。柳原良平作品の素晴らしさに魅せられ、本コラムの連載を開始。

※編注
「船キチ」という表現は「尋常ではない船マニア」といったニュアンスを表しています。柳原良平が自著の中で、主に自身に対して頻繁に使用している表現ですが、そこに差別や侮蔑の意図はまったく感じられません。従って本コラムでは、他の言葉に置き換えず、あえて「船キチ」という単語をそのまま使用しています。   

アンクルトリスが柳原を、漫画家にした?

いわば機能的に作られたキャラクターだったが、この丸まぶた に2〜2頭身半の中高年は、ほどなく他のキャラクターにも転用され、柳原マンガに登場する人物画の標準仕様となる。

朝日新聞の5コマ漫画『ピカロじいさん』(1959年〜)、読売新聞夕刊の『今日も一日』(1963年〜)、公明新聞の『良ちゃん』(1980年〜)などを見れば、それは一目瞭然。童話の『三人のおまわりさん』も同様だった。

しかし、このキャラクターを生み出すのに30分しかかかっていないというのは奇跡としか言いようがない。おそらく、会議室に酒の神バッカスが降臨し微笑んだのだろう。なぜなら3人の脇には、バッカスが潜むのに都合のいい(撮影用)ウイスキーボトルが、鎮座していたであろうから。(以下次号)

アンクル編集子

ロイヤリティバンクの中の人。出版社勤務ののち独立し、雑誌やWEBなどに記事を執筆。柳原良平作品の素晴らしさに魅せられ、本コラムの連載を開始。

※編注
「船キチ」という表現は「尋常ではない船マニア」といったニュアンスを表しています。柳原良平が自著の中で、主に自身に対して頻繁に使用している表現ですが、そこに差別や侮蔑の意図はまったく感じられません。従って本コラムでは、他の言葉に置き換えず、あえて「船キチ」という単語をそのまま使用しています。   

参考文献
・『柳原良平のわが人生』(如月出版)
・『船旅絵日記』(徳間文庫)
・『柳原良平 海と船と港のギャラリー』(横浜みなと博物館)

参考文献
・『柳原良平のわが人生』(如月出版)
・『船旅絵日記』(徳間文庫)
・『柳原良平 海と船と港のギャラリー』(横浜みなと博物館)

柳原良平主義 ~RyoheIZM~

アンクルトリス(アンクル船長)は2.5頭身。そして、ちびまる子ちゃんも2.5頭身だ。これに気づいたときは驚いた。気付いた自分を褒めてやりたい!

ちびまる子ちゃんの著者、さくらももこは、ちびまる子ちゃんのキャラクターを完成させるにあたって柳原良平、またはアンクルトリスを意識などしていなかっただろう。両者ともすでに故人となっているので知ることはできないが。

山口瞳といえば、寿屋(現サントリーホールディングス)時代の柳原良平の同僚であり、「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」の名コピーを考えた人物として、本稿の読者ならすでにご存知のことと思う。

レイを首にかけたアンクルトリスとハワイ各島のイラストによる地図、そこにこのコピーが配された新聞の広告やテレビCMは大きな反響を呼び、この年(1961年)の流行語となるほど広まった。

『冨嶽三十六景』などを代表作とする世界的にも著名な画家・葛飾北斎(1760年〜1849年)。少年時代から版画彫りで生計を立て、19歳で浮世絵界の一大勢力のひとつの門戸を叩き、ほどなくデビューを果たして以来、生涯で34,000点にも及ぶ作品を描いた浮世絵師だ。

アーティストはみな独自の個性を持っているが、その個性を確立するには、それぞれきっかけがあるようだ。たとえばゴッホの独特のタッチや印象的な黄色の使い方は、彼がパリからアルルに引っ越して「ひまわり」を描いたことがきっかけだと言われており、有名な作品はその時期以降に描かれたものが多い。

アルル以前のパリでは、モネやルノワールなどの印象派の画家たちをはじめ、スーラの点描や日本の浮世絵などに影響を受け、さまざまな技法を用いた作品を残したが、ひまわり以降の作品ほど評価は高くない。

海洋画家と呼ばれる、船や海、港を専門に描く画家がいる。高橋健一、飯塚羚児、亀山和明や野上隼夫、世界に目を向けるとイヴァン・アイヴァゾフスキーやウィリアム・ターナーなどなど、その数は多い。 柳原良平も当然そのひとりに数えられていると思ったのだが、彼のことを純粋な海洋画家と呼ぶ記述には出会ったことがない(他の海洋画家との比較はあったが)。
アーティストはみな、作品のオリジナリティにこだわる。だから、自分の作品のどこかの段階で、他人の手が入ることを嫌うタイプも少なくない。妥協を許さないアーティストの姿勢や、納得がいくまで何度もやり直したりする話に、感動を覚えることも多々ある。
破天荒な人生を送り、作品以上に人生(生き様)が面白がられる、そんなアーティストはたくさんいるが、柳原良平はその対極に位置するアーティストのように見える。
前回は柳原良平の人間性について書いたが、今回も他のエピソードを紹介しつつ、人物としての柳原に焦点を当てる。会社に甘えない 柳原が寿屋の正社員を辞め嘱託になったのは、漫画や装丁など他社の仕事をし始めたことがきっかけだったと前回書いた。周囲に気を使ったわけだが、まだ20代の身(28歳)で思い切った決断だ。
人間の品格やスタイルについて論じる書籍がさまざまなところから出ている。一冊も読んだことがないので、もしかしたらその解釈は、世の常識とはズレているかもしれない。しかしそれでも柳原良平は、品格のあるオシャレな大人だと、つくづく思う。今回は芸術家としてではなく、人としての柳原について。
柳原良平は多作だ。そして彼が絵を描く姿を見た人はみな、描く速さに驚く。速いから多くの作品を生み出せるのだ。今回は、柳原の描くスピードについて書く。 無言で描きまくる 柳原は現場主義。船でも景色でも、まずは現物をしっかり観察する。たとえば横浜港に豪華客船が入港すると、柳原はわざわざ小舟をチャーターし、さまざまな角度からその客船を眺めつつ、写真を撮り、そして筆を走らせる。そのフィールドワークにはカメラも必需品だった。
柳原良平は、アニメーションについても先進的な役割を果たしている。そこに登場するキャラクターとして生まれたのが1958年に登場したアンクルトリスだったということも、コラム(第2回)に書いた。今回は、アニメーション作家としての柳原にも触れておこう。 柳原は、1957年に日本公開された映画『八十日間世界一周』を観て、革命的デザイナーと称されたソール・バスが手がけたオープニング・シークエンスを発見し、衝撃を受ける。
リトグラフにおいては作家と刷り師との信頼関係が、作品の出来・不出来に大きく影響するという話を以前に書いた。工房のある広島県沼隈郡を訪れ、版に絵を描いて打ち合わせを済ませた柳原は、あとの工程を刷り師である佐道二郎氏に任せて横浜の自宅に戻る。
柳原良平による作品の、最も顕著な特徴はデフォルメだ。デフォルメについては以前、縦横や遠近の”圧縮”が技法として使われていることや、20世紀に活躍した欧米のデザイナーの影響などについて書いた。 しかしそれだけでは、どうにも物足りない。そこで柳原のたどった道をもう一度だけ振り返ってみる。
2023年の上半期に放送されたNHKの連続テレビ小説『らんまん』では、主人公の槙野万太郎(神木隆之介)が石版印刷の技術を駆使して植物図鑑を完成させた。この石版印刷は通称リトグラフと呼ばれ、微細な描写を再現できる画期的な印刷技術として、日本では明治以降にまたたく間に
柳原良平の多能ぶりについては過去にも述べたが、今回はその多能ついて、もう少し詳しく触れておきたい。 画家でもありデザイナーでもあったことは書いたが、たとえば画家としても柳原は、驚くほどさまざまな手法を駆使した作品を残している。それは
たとえばフィンランドの老舗ブランド、マリメッコの定番テキスタイルは、誰が見てもすぐにマリメッコとわかる。それはもちろんポピーの花をモチーフにした、例のウニッコ(Unikko)と呼ばれるデザイン・パターンのせいでもあるが、目が覚めるような鮮やかな色彩感覚にも原因があるのではないかと思う。
柳原良平の絵に現れる個性の背景には、デザイナーとして培ったデザイン感覚があると前回のコラムで書いた。だがアート界では、画家とデザイナーとの間には大きな隔たりがあったらしい。 たとえば前回登場した、フランスの革命的デザイナーとして著名なカッサンドルの場合、デザインの仕事は、絵画で身を立てるまでの生活の手段としか考えていなかったらしい。帝京大学名誉教授・岡部氏が
柳原良平の絵は、当たり前だが他とは異なったオリジナリティがある。どこが違うかはこれまでにも何度か書いてきたが、なぜ違うか、その理由についても知りたかった。 まず思い当たるのは、柳原は画家であるだけでなく、イラストレーターであり、漫画家であり、またデザイナー、装丁家でもあったこと。 元・横浜みなと博物館館長の志澤氏によれば、
『帆走客船』とだけ題された、ペンによって描かれた原画を見た。モノクロでシンプルな線画だが、マストや飛び出した船首、帆はもちろん、帆綱(ほづな)をはじめとする多くのロープに至るまで、きっちり描き込まれている。このあたりの細かさは、
先日また柳原作品の、原画を観る機会に恵まれた。『ナポリ港の「ミケランジェロ号」』と、珍しくタイトルが絵の中に書いてある、切り絵による作品だ。 晴れわたったナポリの空の下、穏やかな港内に浮かぶ名船ミケランジェロ号の姿がなんとも優雅で、ゆったりした時間の流れが感じられ、
柳原良平の描く船は、堂々たる威風を感じさせるというより、親しみやすく可愛らしいものが多い。この親しみやすさはどこから来るのか? またその親しみやすさを、どうやって表現していたのか? 元・横浜みなと博物館館長の志澤政勝氏は、それをひと言で表現してくれた。 「変形されてますよね? つまり圧縮です」
柳原良平の「船キチ」が、いつどのように育まれたのか知りたかった。ただ彼の少年時代を知っている人は、今となっては見つからなかった。その代わり『柳原良平のわが人生』の記述から、ヒントとなった箇所を紹介する。 戦後(1945年)占領軍の統制下にあった日本は、船舶を建造することができなかったが、1946年には小型船舶の建造許可が降りた。そして翌1947年、関西在住の中学生、柳原良平(15歳)は、
柳原良平は横浜を愛した。山手の丘の中腹に住み書斎兼作業部屋から港を見ながら多くの作品を生み出した(数年後、他の建築物のせいで港は見えなくなってしまったが)。そんな彼の作品が大好きな、横浜に社屋を構える会社の代表がいた。彼は、既存の自社商品をもう一段階盛り上げる起爆剤は、柳原良平が描く絵のパワーだとひらめいた。
さて、ついに船の話だ。どこから書こうか迷うほど柳原の船愛っぷり(=知識)はどこまでも広く深い。それは『船旅絵日記』(徳間文庫)などを一読すれば、その濃度に誰もが思い知る。 排水量(総トン数)や速度、乗客数、船籍、建造会社、オーナー会社(の遷移も)などのスペックはもちろん、各キャビンの位置がわかる図に加えて一等から三等までの船室料金に至るまで詳細に記述されている。もちろん調べたりメモしたりすればわかることだという意見もあろう。だが当時は、気楽に検索して調べることなど不可能な時代。調査方法も問い合わせ先も、自力で見つけ出すしかない。
線画は、柳原良平の作品における原点だ。彼にとってスケッチは日常であり、スケッチは線画から始まる。そして彼は、線画による味わい深い作品を数多く残している。 『三人のおまわりさん』(学研)の絵は、そんな挿絵を見ることのできる作品のひとつ。主人公である三人のおまわりさんは、三人とも例によって2頭身半で、ヒゲの向き以外はほぼ同じ顔なのだが、
前回は、1958年に誕生以来、半世紀を軽く超えて今なお大活躍する不滅のキャラクター「アンクルトリス」が誕生するまでについて書いた。こんな長く活躍するとは柳原良平ご本人さえ想像していなかったのでは? これは作品の内に、作者本人すら意識しない普遍性が備わっていたことの証と言える。つまり柳原良平の作品には「魅力という名の普遍性」が備わっている。
道は、自分で切り開く 船や港は、柳原良平が一生を通じて向き合ってきたテーマであり、その絵を前にすると誰もが、オリジナリティあふれる、柳原ならではの作風に魅了される。その魅力については今後、手を替え品を替え何度も書くことになろうが、その前にあえて、彼の作品のもうひとつの特徴である、人物画の面白さにスポットを当てておきたい。
柳原良平による船の絵。それはときに埠頭に停泊して浮かぶ豪華客船であったり、ときにクレーンで荷役作業中の力強いコンテナ船であったりする。作品によっては客船の甲板から手を振る旅客や、貨物船のブリッジで針路を見つめる船長が描かれていたり。 船自体の絵は写実的な絵とはかけ離れた作風にもかかわらず、

柳原良平主義 ~RyoheIZM~

アンクルトリス(アンクル船長)は2.5頭身。そして、ちびまる子ちゃんも2.5頭身だ。これに気づいたときは驚いた。気付いた自分を褒めてやりたい!

ちびまる子ちゃんの著者、さくらももこは、ちびまる子ちゃんのキャラクターを完成させるにあたって柳原良平、またはアンクルトリスを意識などしていなかっただろう。両者ともすでに故人となっているので知ることはできないが。

山口瞳といえば、寿屋(現サントリーホールディングス)時代の柳原良平の同僚であり、「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」の名コピーを考えた人物として、本稿の読者ならすでにご存知のことと思う。

レイを首にかけたアンクルトリスとハワイ各島のイラストによる地図、そこにこのコピーが配された新聞の広告やテレビCMは大きな反響を呼び、この年(1961年)の流行語となるほど広まった。

『冨嶽三十六景』などを代表作とする世界的にも著名な画家・葛飾北斎(1760年〜1849年)。少年時代から版画彫りで生計を立て、19歳で浮世絵界の一大勢力のひとつの門戸を叩き、ほどなくデビューを果たして以来、生涯で34,000点にも及ぶ作品を描いた浮世絵師だ。

アーティストはみな独自の個性を持っているが、その個性を確立するには、それぞれきっかけがあるようだ。たとえばゴッホの独特のタッチや印象的な黄色の使い方は、彼がパリからアルルに引っ越して「ひまわり」を描いたことがきっかけだと言われており、有名な作品はその時期以降に描かれたものが多い。

アルル以前のパリでは、モネやルノワールなどの印象派の画家たちをはじめ、スーラの点描や日本の浮世絵などに影響を受け、さまざまな技法を用いた作品を残したが、ひまわり以降の作品ほど評価は高くない。

海洋画家と呼ばれる、船や海、港を専門に描く画家がいる。高橋健一、飯塚羚児、亀山和明や野上隼夫、世界に目を向けるとイヴァン・アイヴァゾフスキーやウィリアム・ターナーなどなど、その数は多い。 柳原良平も当然そのひとりに数えられていると思ったのだが、彼のことを純粋な海洋画家と呼ぶ記述には出会ったことがない(他の海洋画家との比較はあったが)。
アーティストはみな、作品のオリジナリティにこだわる。だから、自分の作品のどこかの段階で、他人の手が入ることを嫌うタイプも少なくない。妥協を許さないアーティストの姿勢や、納得がいくまで何度もやり直したりする話に、感動を覚えることも多々ある。
破天荒な人生を送り、作品以上に人生(生き様)が面白がられる、そんなアーティストはたくさんいるが、柳原良平はその対極に位置するアーティストのように見える。
前回は柳原良平の人間性について書いたが、今回も他のエピソードを紹介しつつ、人物としての柳原に焦点を当てる。会社に甘えない 柳原が寿屋の正社員を辞め嘱託になったのは、漫画や装丁など他社の仕事をし始めたことがきっかけだったと前回書いた。周囲に気を使ったわけだが、まだ20代の身(28歳)で思い切った決断だ。
人間の品格やスタイルについて論じる書籍がさまざまなところから出ている。一冊も読んだことがないので、もしかしたらその解釈は、世の常識とはズレているかもしれない。しかしそれでも柳原良平は、品格のあるオシャレな大人だと、つくづく思う。今回は芸術家としてではなく、人としての柳原について。
柳原良平は多作だ。そして彼が絵を描く姿を見た人はみな、描く速さに驚く。速いから多くの作品を生み出せるのだ。今回は、柳原の描くスピードについて書く。 無言で描きまくる 柳原は現場主義。船でも景色でも、まずは現物をしっかり観察する。たとえば横浜港に豪華客船が入港すると、柳原はわざわざ小舟をチャーターし、さまざまな角度からその客船を眺めつつ、写真を撮り、そして筆を走らせる。そのフィールドワークにはカメラも必需品だった。
柳原良平は、アニメーションについても先進的な役割を果たしている。そこに登場するキャラクターとして生まれたのが1958年に登場したアンクルトリスだったということも、コラム(第2回)に書いた。今回は、アニメーション作家としての柳原にも触れておこう。 柳原は、1957年に日本公開された映画『八十日間世界一周』を観て、革命的デザイナーと称されたソール・バスが手がけたオープニング・シークエンスを発見し、衝撃を受ける。
リトグラフにおいては作家と刷り師との信頼関係が、作品の出来・不出来に大きく影響するという話を以前に書いた。工房のある広島県沼隈郡を訪れ、版に絵を描いて打ち合わせを済ませた柳原は、あとの工程を刷り師である佐道二郎氏に任せて横浜の自宅に戻る。
柳原良平による作品の、最も顕著な特徴はデフォルメだ。デフォルメについては以前、縦横や遠近の”圧縮”が技法として使われていることや、20世紀に活躍した欧米のデザイナーの影響などについて書いた。 しかしそれだけでは、どうにも物足りない。そこで柳原のたどった道をもう一度だけ振り返ってみる。
2023年の上半期に放送されたNHKの連続テレビ小説『らんまん』では、主人公の槙野万太郎(神木隆之介)が石版印刷の技術を駆使して植物図鑑を完成させた。この石版印刷は通称リトグラフと呼ばれ、微細な描写を再現できる画期的な印刷技術として、日本では明治以降にまたたく間に
柳原良平の多能ぶりについては過去にも述べたが、今回はその多能ついて、もう少し詳しく触れておきたい。 画家でもありデザイナーでもあったことは書いたが、たとえば画家としても柳原は、驚くほどさまざまな手法を駆使した作品を残している。それは
たとえばフィンランドの老舗ブランド、マリメッコの定番テキスタイルは、誰が見てもすぐにマリメッコとわかる。それはもちろんポピーの花をモチーフにした、例のウニッコ(Unikko)と呼ばれるデザイン・パターンのせいでもあるが、目が覚めるような鮮やかな色彩感覚にも原因があるのではないかと思う。
柳原良平の絵に現れる個性の背景には、デザイナーとして培ったデザイン感覚があると前回のコラムで書いた。だがアート界では、画家とデザイナーとの間には大きな隔たりがあったらしい。 たとえば前回登場した、フランスの革命的デザイナーとして著名なカッサンドルの場合、デザインの仕事は、絵画で身を立てるまでの生活の手段としか考えていなかったらしい。帝京大学名誉教授・岡部氏が
柳原良平の絵は、当たり前だが他とは異なったオリジナリティがある。どこが違うかはこれまでにも何度か書いてきたが、なぜ違うか、その理由についても知りたかった。 まず思い当たるのは、柳原は画家であるだけでなく、イラストレーターであり、漫画家であり、またデザイナー、装丁家でもあったこと。 元・横浜みなと博物館館長の志澤氏によれば、
『帆走客船』とだけ題された、ペンによって描かれた原画を見た。モノクロでシンプルな線画だが、マストや飛び出した船首、帆はもちろん、帆綱(ほづな)をはじめとする多くのロープに至るまで、きっちり描き込まれている。このあたりの細かさは、
先日また柳原作品の、原画を観る機会に恵まれた。『ナポリ港の「ミケランジェロ号」』と、珍しくタイトルが絵の中に書いてある、切り絵による作品だ。 晴れわたったナポリの空の下、穏やかな港内に浮かぶ名船ミケランジェロ号の姿がなんとも優雅で、ゆったりした時間の流れが感じられ、
柳原良平の描く船は、堂々たる威風を感じさせるというより、親しみやすく可愛らしいものが多い。この親しみやすさはどこから来るのか? またその親しみやすさを、どうやって表現していたのか? 元・横浜みなと博物館館長の志澤政勝氏は、それをひと言で表現してくれた。 「変形されてますよね? つまり圧縮です」
柳原良平の「船キチ」が、いつどのように育まれたのか知りたかった。ただ彼の少年時代を知っている人は、今となっては見つからなかった。その代わり『柳原良平のわが人生』の記述から、ヒントとなった箇所を紹介する。 戦後(1945年)占領軍の統制下にあった日本は、船舶を建造することができなかったが、1946年には小型船舶の建造許可が降りた。そして翌1947年、関西在住の中学生、柳原良平(15歳)は、
柳原良平は横浜を愛した。山手の丘の中腹に住み書斎兼作業部屋から港を見ながら多くの作品を生み出した(数年後、他の建築物のせいで港は見えなくなってしまったが)。そんな彼の作品が大好きな、横浜に社屋を構える会社の代表がいた。彼は、既存の自社商品をもう一段階盛り上げる起爆剤は、柳原良平が描く絵のパワーだとひらめいた。
さて、ついに船の話だ。どこから書こうか迷うほど柳原の船愛っぷり(=知識)はどこまでも広く深い。それは『船旅絵日記』(徳間文庫)などを一読すれば、その濃度に誰もが思い知る。 排水量(総トン数)や速度、乗客数、船籍、建造会社、オーナー会社(の遷移も)などのスペックはもちろん、各キャビンの位置がわかる図に加えて一等から三等までの船室料金に至るまで詳細に記述されている。もちろん調べたりメモしたりすればわかることだという意見もあろう。だが当時は、気楽に検索して調べることなど不可能な時代。調査方法も問い合わせ先も、自力で見つけ出すしかない。
線画は、柳原良平の作品における原点だ。彼にとってスケッチは日常であり、スケッチは線画から始まる。そして彼は、線画による味わい深い作品を数多く残している。 『三人のおまわりさん』(学研)の絵は、そんな挿絵を見ることのできる作品のひとつ。主人公である三人のおまわりさんは、三人とも例によって2頭身半で、ヒゲの向き以外はほぼ同じ顔なのだが、
前回は、1958年に誕生以来、半世紀を軽く超えて今なお大活躍する不滅のキャラクター「アンクルトリス」が誕生するまでについて書いた。こんな長く活躍するとは柳原良平ご本人さえ想像していなかったのでは? これは作品の内に、作者本人すら意識しない普遍性が備わっていたことの証と言える。つまり柳原良平の作品には「魅力という名の普遍性」が備わっている。
道は、自分で切り開く 船や港は、柳原良平が一生を通じて向き合ってきたテーマであり、その絵を前にすると誰もが、オリジナリティあふれる、柳原ならではの作風に魅了される。その魅力については今後、手を替え品を替え何度も書くことになろうが、その前にあえて、彼の作品のもうひとつの特徴である、人物画の面白さにスポットを当てておきたい。
柳原良平による船の絵。それはときに埠頭に停泊して浮かぶ豪華客船であったり、ときにクレーンで荷役作業中の力強いコンテナ船であったりする。作品によっては客船の甲板から手を振る旅客や、貨物船のブリッジで針路を見つめる船長が描かれていたり。 船自体の絵は写実的な絵とはかけ離れた作風にもかかわらず、