
柳原良平主義 ~RyoheIZM~15

柳原良平主義 ~RyoheIZM~15
Oct 19, 2023

55歳からの、リトグラフ
55歳からの、リトグラフ
『らんまん』
『らんまん』
2023年の上半期に放送されたNHKの連続テレビ小説『らんまん』では、主人公の槙野万太郎(神木隆之介)が石版印刷の技術を駆使して植物図鑑を完成させた。この石版印刷は通称リトグラフと呼ばれ、微細な描写を再現できる画期的な印刷技術として、日本では明治以降にまたたく間に広まった。
今の印刷物はオフセットをはじめとする、さまざまな手法に置き換わっているが芸術分野においては今も重用されている(石版は重すぎるため、その後は亜鉛、今はアルミなどに変わっている)。本来なら原画でしか味わえない色ムラや筆のカスレも含めて、微妙なニュアンスを再現できるからだ。
2023年の上半期に放送されたNHKの連続テレビ小説『らんまん』では、主人公の槙野万太郎(神木隆之介)が石版印刷の技術を駆使して植物図鑑を完成させた。この石版印刷は通称リトグラフと呼ばれ、微細な描写を再現できる画期的な印刷技術として、日本では明治以降にまたたく間に広まった。
今の印刷物はオフセットをはじめとする、さまざまな手法に置き換わっているが芸術分野においては今も重用されている(石版は重すぎるため、その後は亜鉛、今はアルミなどに変わっている)。本来なら原画でしか味わえない色ムラや筆のカスレも含めて、微妙なニュアンスを再現できるからだ。
リトグラフの仕組み
版画のように版を彫って表面に凹凸をつけるのではなく、平な石灰岩の表面に絵を描いて、油性インク以外にさまざまな薬品を用い、水と油が反発する原理を使って刷り上げられる。といいつつリトグラフも、版を使って印刷するので、版画の一種と分類されている。
現在主流のオフセット印刷が"平版印刷"と呼ばれることからわかるとおり、オフセットはリトグラフの延長上にある手法だ。つまりリトグラフが生まれなかったら、オフセット印刷は生まれていない。
描き手だけではダメ
ただしこのリトグラフ、印刷にはかなりの技術と手間を要する印刷方法で、描き手が優れていれば良い作品ができるとは限らない。そこには"刷り師"と呼ばれる印刷職人の存在があり、描き手と刷り師 との腕と息が合って初めて素晴らしい作品となる。
リトグラフが細密な筆致を再現できるとはいっても、印刷である以上インクの盛り具合や色味などは、刷り師のセンスと裁量で調整される。しかも同じインクでも気温や湿度によって刷り上がりは変わる。
刷り師との出会い
柳原良平も見事なリトグラフ作品を残しているが、そこには佐道二郎という刷り師との出会いがあった。常石造船が作った文化施設・みろくの里版画工房(現・グローカルジャパン版画工房)に、柳原が訪れた際に出会った刷り師が佐道氏だった。1986年、柳原が55歳のときだ。リトグラフに興味を持った柳原は、その後1〜2ヶ月に一度は工房を訪れ、以後終生にわたり佐道氏とコンビでリトグラフ制作を行った。
佐道氏は試し刷りを郵送するたび、そこにサインが入るか否か(柳原が納得するかどうか)に気を揉んだという。そうしたやりとりを重ねて佐道氏は柳原との信頼関係を深め、ハイペースで多くの作品を生み出していった。その数は約3,000点にものぼるというから驚く。
原画はどこに?
元・横浜みなと博物館館長である志澤政勝氏が、面白いことを教えてくれた。
「絵描きで版画(リトグラフ含む)をやる人はいますけど、原画を渡してあとは刷り師に任せちゃう人が多い。でも先生は自分で版を作ってたんです。8色とか自分で描いてね」
柳原は原画を用意せず、版に直接描いていく。その姿に刷り師・佐道氏は衝撃を受けた。その様子を佐道氏は「表現するための仕事の早さ、決断力、当たり前なアイディアを裏切るポジティブな独創力」があったと『柳原良平 海と船と港のギャラリー』(横浜みなと博物館刊)に寄稿している。
一方の柳原自身は、これが当たり前だと思っていた。『柳原良平のわが人生』(如月出版刊)に「私のリトグラフは原画というものはない。(中略)本来の純粋な版画は版の上で絵をつくるものだと思う」と記述している。
そんなわけで今回のメイン・ビジュアルは、柳原が版に直接描いている様子だ。この写真で柳原は右手の下に紙を敷いている。何も敷かないと、版に手の油分がつくと、深油性インクが乗ってしまうからだ。
柳原のリトグラフの特徴は、色数を限定することと、色同士をなるべく重ねないこと。最初のうちは8色(つまり8版)と決めていたそうで、なおかつ色を重ねないで刷るというルールは発想的に、切り絵に通じる気がした。
高彩度印刷とリトグラフ
ちなみに当サイトにリンクしている販売サイトでは、柳原の切り絵を高彩度印刷技術によって、オリジナルに限りなく忠実な色合いを再現している。リトグラフとは手法がまったく異なるが、両方とも職人的な技術とコラボしてできあがった柳原作品ということで、その色合いや質感を比べてみるのも面白いかもしれない。(以下、次号)
リトグラフの仕組み
版画のように版を彫って表面に凹凸をつけるのではなく、平な石灰岩の表面に絵を描いて、油性インク以外にさまざまな薬品を用い、水と油が反発する原理を使って刷り上げられる。といいつつリトグラフも、版を使って印刷するので、版画の一種と分類されている。
現在主流のオフセット印刷が"平版印刷"と呼ばれることからわかるとおり、オフセットはリトグラフの延長上にある手法だ。つまりリトグラフが生まれなかったら、オフセット印刷は生まれていない。
描き手だけではダメ
ただしこのリトグラフ、印刷にはかなりの技術と手間を要する印刷方法で、描き手が優れていれば良い作品ができるとは限らない。そこには"刷り師"と呼ばれる印刷職人の存在があり、描き手と刷り師 との腕と息が合って初めて素晴らしい作品となる。
リトグラフが細密な筆致を再現できるとはいっても、印刷である以上インクの盛り具合や色味などは、刷り師のセンスと裁量で調整される。しかも同じインクでも気温や湿度によって刷り上がりは変わる。
刷り師との出会い
柳原良平も見事なリトグラフ作品を残しているが、そこには佐道二郎という刷り師との出会いがあった。常石造船が作った文化施設・みろくの里版画工房(現・グローカルジャパン版画工房)に、柳原が訪れた際に出会った刷り師が佐道氏だった。1986年、柳原が55歳のときだ。
リトグラフに興味を持った柳原は、その後1〜2ヶ月に一度は工房を訪れ、以後終生にわたり佐道氏とコンビでリトグラフ制作を行った。
佐道氏は試し刷りを郵送するたび、そこにサインが入るか否か(柳原が納得するかどうか)に気を揉んだという。そうしたやりとりを重ねて佐道氏は柳原との信頼関係を深め、ハイペースで多くの作品を生み出していった。その数は約3,000点にものぼるというから驚く。
原画はどこに?
元・横浜みなと博物館館長である志澤政勝氏が、面白いことを教えてくれた。
「絵描きで版画(リトグラフ含む)をやる人はいますけど、原画を渡してあとは刷り師に任せちゃう人が多い。でも先生は自分で版を作ってたんです。8色とか自分で描いてね」
柳原は原画を用意せず、版に直接描いていく。その姿に刷り師・佐道氏は衝撃を受けた。その様子を佐道氏は「表現するための仕事の早さ、決断力、当たり前なアイディアを裏切るポジティブな独創力」があったと『柳原良平 海と船と港のギャラリー』(横浜みなと博物館刊)に寄稿している。
一方の柳原自身は、これが当たり前だと思っていた。『柳原良平のわが人生』(如月出版刊)に「私のリトグラフは原画というものはない。(中略)本来の純粋な版画は版の上で絵をつくるものだと思う」と記述している。
そんなわけで今回のメイン・ビジュアルは、柳原が版に直接描いている様子だ。この写真で柳原は右手の下に紙を敷いている。何も敷かないと、版に手の油分がつくと、深油性インクが乗ってしまうからだ。
柳原のリトグラフの特徴は、色数を限定することと、色同士をなるべく重ねないこと。最初のうちは8色(つまり8版)と決めていたそうで、なおかつ色を重ねないで刷るというルールは発想的に、切り絵に通じる気がした。
高彩度印刷とリトグラフ
ちなみに当サイトにリンクしている販売サイトでは、柳原の切り絵を高彩度印刷技術によって、オリジナルに限りなく忠実な色合いを再現している。リトグラフとは手法がまったく異なるが、両方とも職人的な技術とコラボしてできあがった柳原作品ということで、その色合いや質感を比べてみるのも面白いかもしれない。(以下、次号)

アンクル編集子
※編注
「船キチ」という表現は「尋常ではない船マニア」といったニュアンスを表しています。柳原良平が自著の中で、主に自身に対して頻繁に使用している表現ですが、そこに差別や侮蔑の意図はまったく感じられません。従って本コラムでは、他の言葉に置き換えず、あえて「船キチ」という単語をそのまま使用しています。

柳原良平(やなぎはら・りょうへい)

アンクル編集子
※編注
「船キチ」という表現は「尋常ではない船マニア」といったニュアンスを表しています。柳原良平が自著の中で、主に自身に対して頻繁に使用している表現ですが、そこに差別や侮蔑の意図はまったく感じられません。従って本コラムでは、他の言葉に置き換えず、あえて「船キチ」という単語をそのまま使用しています。
参考文献:
・『柳原良平のわが人生』(如月出版)
・『柳原良平 船と海と港の本』(横浜みなと博物館刊)
ご協力いただいた方々
● 志澤政勝(しざわ・まさかつ) 1978年、 横浜海洋科学博物館の学芸員となり、同館の理事を務
めていた柳原良平と出会う。交友は柳原が亡くなるまで続いた。以後、横浜マリタイムミュージアム(現・横浜みなと博物館) でキャリアを積み、2015年、館長に就任。2019年に退職し、現在は 海事史などを研究している。
参考文献:
・『柳原良平のわが人生』(如月出版)
・『柳原良平 船と海と港の本』(横浜みなと博物館刊)
ご協力いただいた方々
● 志澤政勝(しざわ・まさかつ) 1978年、 横浜海洋科学博物館の学芸員となり、同館の理事を務
めていた柳原良平と出会う。交友は柳原が亡くなるまで続いた。以後、横浜マリタイムミュージアム(現・横浜みなと博物館)でキャリアを積み、2015年、館長に就任。2019年に退職し、現在は 海事史などを研究している。
柳原良平原画・複製画
柳原良平原画・複製画
柳原良平アクリルフォト
柳原良平アクリルフォト
柳原良平主義 ~RyoheIZM~
アンクルトリス(アンクル船長)は2.5頭身。そして、ちびまる子ちゃんも2.5頭身だ。これに気づいたときは驚いた。気付いた自分を褒めてやりたい!
ちびまる子ちゃんの著者、さくらももこは、ちびまる子ちゃんのキャラクターを完成させるにあたって柳原良平、またはアンクルトリスを意識などしていなかっただろう。両者ともすでに故人となっているので知ることはできないが。
山口瞳といえば、寿屋(現サントリーホールディングス)時代の柳原良平の同僚であり、「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」の名コピーを考えた人物として、本稿の読者ならすでにご存知のことと思う。
レイを首にかけたアンクルトリスとハワイ各島のイラストによる地図、そこにこのコピーが配された新聞の広告やテレビCMは大きな反響を呼び、この年(1961年)の流行語となるほど広まった。
アーティストはみな独自の個性を持っているが、その個性を確立するには、それぞれきっかけがあるようだ。たとえばゴッホの独特のタッチや印象的な黄色の使い方は、彼がパリからアルルに引っ越して「ひまわり」を描いたことがきっかけだと言われており、有名な作品はその時期以降に描かれたものが多い。
アルル以前のパリでは、モネやルノワールなどの印象派の画家たちをはじめ、スーラの点描や日本の浮世絵などに影響を受け、さまざまな技法を用いた作品を残したが、ひまわり以降の作品ほど評価は高くない。
柳原良平主義 ~RyoheIZM~
アンクルトリス(アンクル船長)は2.5頭身。そして、ちびまる子ちゃんも2.5頭身だ。これに気づいたときは驚いた。気付いた自分を褒めてやりたい!
ちびまる子ちゃんの著者、さくらももこは、ちびまる子ちゃんのキャラクターを完成させるにあたって柳原良平、またはアンクルトリスを意識などしていなかっただろう。両者ともすでに故人となっているので知ることはできないが。
山口瞳といえば、寿屋(現サントリーホールディングス)時代の柳原良平の同僚であり、「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」の名コピーを考えた人物として、本稿の読者ならすでにご存知のことと思う。
レイを首にかけたアンクルトリスとハワイ各島のイラストによる地図、そこにこのコピーが配された新聞の広告やテレビCMは大きな反響を呼び、この年(1961年)の流行語となるほど広まった。
アーティストはみな独自の個性を持っているが、その個性を確立するには、それぞれきっかけがあるようだ。たとえばゴッホの独特のタッチや印象的な黄色の使い方は、彼がパリからアルルに引っ越して「ひまわり」を描いたことがきっかけだと言われており、有名な作品はその時期以降に描かれたものが多い。
アルル以前のパリでは、モネやルノワールなどの印象派の画家たちをはじめ、スーラの点描や日本の浮世絵などに影響を受け、さまざまな技法を用いた作品を残したが、ひまわり以降の作品ほど評価は高くない。